足守の観光

近水園
(おみずえん):陣屋に隣接した大名庭園

近水園は足守藩主木下家の別館奥手に設けられた大名庭園で、小堀遠州流の園池を中心とした池泉回遊式の築庭方式で作られています。岡山県下ではは岡山の後楽園・津山の衆楽園と並ぶ大名庭園です。


写真出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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足守プラザ
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足守文庫:藩主遺品・藩の資料の資料を収蔵・展示


備中足守まちなみ館

格子窓や虫籠窓(むしこまど)などが特徴的な漆喰なまこ壁の町家風建物には、民家の土間や吹き抜けも再現。神楽の面や漆器、写真など、足守の歴史資料などを展示。観光情報も入手可能で、観光案内をしてくれるボランティアガイドの予約受付も行なっている。



■お問い合わせ
〒701-1463岡山県岡山市足守928 086-295-2500
アクセス
岡山自動車道岡山総社ICから国道429号を加茂川鞠方面へ5.5km
JR足守駅から中鉄バス大井方面行きで7分、足守プラザ前下車、徒歩5分

駐車場30台無料 営業時間9:30〜16:30 休業日月曜休 入場料無料
大光寺

足守藩第3代藩主・木下利当が創建した,木下家歴代の霊廟。江戸時代中期の元禄年間の建立。霊廟には太閤秀吉と北の政所、木下家歴代当主の位牌がある。






足守の歴史

藩主庭園・近水園(おみずえん)足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市足守)に置いた。


豊臣秀吉の妻・北政所の兄・木下家定が、慶長6年(1601年)播磨国姫路藩(2万5千石)より転封し同じ石高の2万5千石で足守に陣屋を構え立藩。慶長13年(1608年)家定死去により幕府が遺領を子の勝俊・利房に分与。勝俊がこれを独占したことを理由に、慶長14年(1609年)藩領を没収。

慶長15年(1610年)浅野長政の3男・長晟が2万4千石で入封。慶長18年(1613年)兄・幸長の死去に伴い紀伊国和歌山藩(37万6千石)を相続し転出。天領となる。

元和元年(1615年)木下利房が大阪の陣の功績により2万5千石にて入封。以後、明治まで、木下家が11代・256年間在封した。
所領は備中国内の上房郡と賀陽郡より構成されていた。しかし、8代利徽の寛政11年(1799年)所領のうち約2万2千石が陸奥国伊達郡・信夫郡に移された。これにより決して豊かではなかった藩の財政は窮地に立たされた。これ以後、領地回復の嘆願が歴代藩主の主題となった。10代利愛の天保2年(1831年)嘆願の甲斐あってか、移転地の約半分が賀陽郡内に戻された。なお、領地が完全に備中国内に戻ったのは、明治維新後の明治3年(1870年)になってからである。
当藩からは幕末に適塾を開いた緒方洪庵を輩出している。
明治4年(1871年)廃藩置県により足守県・深津県・小田県を経て岡山県に編入された。
なお、明治に入ると最後の藩主・利恭は子爵として華族に列せられた。彼の死後、養嗣子として歌人の木下利玄が家督を継いでいる。

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