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勝静、奏者番に

1851年6月 板倉勝静は幕府の「奏者番」に任命された。

奏者番とは年始・五節句などに将軍に謁する大名の取り次ぎをしたり、御三家や大名から上意を伝えるために派遣された使いをつとめるための役職であり、幕府の要職につくための登竜門的な位置づけがあった。このころ幕府で出世するためにはまず「奏者番」となり、その中から選ばれる「寺社奉行」を兼務する、寺社奉行に任命されさえすればその後、「京都所司代」などを経て幕府の老中なれるとが通常の出世ルートであった。

寺社奉行になるためには幕府の奏者番に任命された上、かつ一万石以上の譜代大名であることが条件であったが、この条件に添っている大名たちはこぞって重要職である「寺社奉行」への就任を巡り「お手入れ合戦(賄賂)」を繰り広げていた。

各藩の大名にとって「幕府老中」に就任することこそ大名として生まれてきた上での至上命題である、ましてや徳川定信の血を引く勝静にとって奏者番の任命は千載一遇のチャンスである、この上は寺社奉行職は是が非でも手に入れたい要職であった。

「あと一歩で寺社奉行の職が手に入る。しかし・・・」

当時の松山藩は10万両在った借金を全て返済し終え、さらに10万両という蓄財を蓄えてはいた。その後も藩内では方谷改革の精神は脈々と続いており、お手入れに関しても非常に厳しく禁じていた。
どうしても寺社奉行の任命を承けたい勝静だが、藩主自らがこの「お手入れ禁止」の禁則を破るわけにはいかない、しかしこの職を手に入れるためには莫大なお手入れが必要となる、目前に見えた「寺社奉行の職」がなんとしてもほしい勝静は備中松山の方谷に相談を持ちかけた。

松山より帰ってきた方谷の返答は、予想はしていたものの、勝静のとってあまりにも過酷なものだった。

「・・お手入れの使ってまでの寺社奉行就任はどうかやめていただきたく存じます。藩はこれまでお手入れを厳しく禁止して、違反する物は厳罰に処してきました。お手入れを使って幕閣の出世をはかることは、すなわち藩政改革の厳法を藩主自らが犯すこととなります、お手入れなしでは寺社奉行の地位に就けぬと言うのなら、それもまた仕方がないことと存じます。」

勝静の旧臣たちは、方谷の判断に一斉に反対した。

「殿の幕府における千載一遇のチャンスをつぶそうとしている」
「勝静様が松平定信公の孫と知った上で、その判断は何たることか!家臣の風上にもおけぬ!」
「方谷を切る」

勝静同情論は方谷批判を盛り上げ、方谷就任以来時に浮上する方谷暗殺の噂が藩内を闊歩した。


  

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