▲山田方谷マニアックストップページ
時代は動いた。

安政4年8月(1857年)、勝静は幕府の要職である「寺社奉行」に就任した。
お手入れなしの就任である、あまりにも意外なことであったが時代はもはや現状を帰れる力量を持つ人材を欲求していた。わずか2万石の破綻寸前の小藩を奇跡のような藩政改革によって蘇らせた勝静のその手腕は江戸城中でも評判となっていた。

この任命を全く思いがけないことと思っていたは他ならぬ勝静本人だった、
全くこの上もない名誉の任命ではあるが、寺社奉行就任と言うことになると相当のな出費が必要となる・・・

幕府の職につく場合、職にかかる経費は全て藩からの持ち出しというのが当時の決まりであり、当然寺社奉行を引き受けるにはそれなりの支出が要求された。勝静はその迷いを素直に方谷にぶつけた。

「このたびの寺社奉行兼務の命、誠に心痛至極の出来事である、方谷よ、私が寺社奉行に就任することとなると莫大な出費が予想される、もしそれが元で藩財政が再び悪化することにでもなれば、早速退役せねばならぬ、いかがすればよい。」

この問いに対し方谷は
「この度の事は天下弊風であるお手入れなしでの就任の命でございます。見事としか言いようはございません。このことは君子一同喜ぶべき事で、寺社奉行に就任すべきであります。藩財政の方は私にお任せいただければ大丈夫でございます。」

しかし、このとき方谷はすでに頭の片隅ある確信を抱いていた。
おそらく方谷の本心は「寺社奉行就任には反対」だった、しかし藩主勝静は松平定信公の孫、徳川の血は脈々と流れている、勝静にとって寺社奉行という幕府要職への就任、幕閣参加は徳川に生まれた物としてまさに夢にまで見た事であろう、それもお手入れをつかわずの就任である。


あるエピソードがある、それは2年前、安政2年(1855年)事である、松山藩は近隣諸藩の中でも親藩である津山藩から西洋砲術を習うため津山藩士植原六郎左右衛門を招き、玉島の海上で艦上砲撃の軍事演習を行った。あまり自分の考えをあからさまにしない方谷の口から驚くべきセリフが発せられたのは、津山藩士植原以下4名を慰労する酒の席でのことだった。


「幕府を衣にたとえると、家康が材料を調え秀忠が裁縫をし、家光が初服した。以後、代々襲用したので、吉宗がひとたび洗濯し、松平忠信が再び洗濯した。しかし、以後は汚染と綻びがはなはだしく、新調しなければ用に耐えない。」と方谷

「三度洗濯してはどうか」と津山藩士

「布質はすでに破れ、もはや針線に耐えない」と方谷

あまりにも確信的な幕府崩壊の予言である。このときはまだ幕末の志士たちも台頭しておらず、わずかに尊皇思想が芽生え始めた頃、倒幕の声が聞こえてくるのはこの十数年後のことである、ましてや松山藩藩主は松平定信の孫の勝静である、突然飛び出した方谷のこのせりふには誰もが驚愕し息をのんだ。

そうなのだ、このとき方谷はすでに幕府の崩壊を確信していた、そしてその老朽化した巨船に自分のもっとも敬愛する松山藩主、板倉勝静が乗り込もうとしているのだ。しかし勝静自身の実力によってつかみ取った栄光を否定することは方谷には出来なかった。





  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所