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【方谷、勝静の政治顧問に】

安政五年、井伊直弼が幕府の大老となるとともに「安政の五か国条約」の調印および「将軍継嗣問題」に対して激化した尊王攘夷(そんのうじようい)運動派に対し世に言う安政の大獄が始まった。


吉田松陰、越前藩士、橋本左内(さない)頼山陽の息子、頼三樹三郎ら多くの人々が獄に繋(つな)がれ、大獄の処分者は79名にも及んだ。大老井伊直弼は崩れかかった幕府の威信を恐怖政治によって再び引き戻そうとしたのである。


安政6年(1859年)2月、時の寺社奉行であった勝静は臆することなく井伊大老に意見した。


「大老殿(井伊直弼)、今回のことは、将軍の後継ぎと互市の件に基づくものでございます。今や二つの懸案ともに大老の思いのままとなっております。一人二人の罪の重い者だけを罰し、他の者はは不問とし寛大な措置をとることこそ今の幕府の道と心得ます。」

その意見は方谷の教えを受けた人物にふさわしい物であったが、同時に井伊大老を激怒させるに十分のものでもあった。勝静は罵倒されその場で寺社奉行を罷免されてしまった。


ところはかわって備中松山、早馬に載ってきた勝静罷免のニュースはすぐに方谷ら藩士の耳にも届いた、多くの者が藩主の幕府の要職罷免を悲しむ中、ひとりそっと不可解な笑みを漏らしている人物がいた、他ならぬ方谷である。方谷はすぐに勝静に手紙をしたためた。

「殿の判断には寸分も間違いはございません、このことにより奏番者兼寺社奉行を罷免されたとしてもそれは「誠」の判断であり何一つ恥じることもございません。殿を罷免したのはあくまで幕府であり朝廷ではございません。現在の幕府は間違いなく滅亡への道をたどっております。老朽化した古船に身をゆだねることはございません、帰ってきてください、あなたが立つ城は小さいとはいえこの備中松山城でございましょう。」


「殿が帰ってくる」、このことは老臣となった方谷を奮いたたせた。

このころになると方谷の藩政改革はほぼ完了し、実石高2万両といわれていた国力は20万石にまで膨らみ、備中松山城には西洋キャノン砲数十門、城壁にはおびただしい数の大砲が装備された。

さらに4月、希望して城下から20キロも離れた山中の西方村長瀬に移住し、自ら半政半農の土着政策を自ら実践したのである。


余談ではあるが司馬遼太郎の小説「峠」で河井継之助が方谷に教えをこうため来松したのはこの3ヶ月後の1859年7月の事であったが、それに関しては後ほど。

なお、安政の大獄で捕らわれた人の中に春日潜庵がいたが、危うく命を助けられて獄中から出ることができた。長い間わからなかったその理由が方谷のお陰であったことがわかり、あの傲慢な潜庵が方谷の人柄に感服し、「方谷は人に恩を売らぬ者である」と語っている。



  

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