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TOPページ神童誕生母・梶の死人生の転機2度目の京遊学
方谷、17才になっていた、世俗にまみれた日々の仕事は肉体的にも精神的にもつらい物だった。何とか独学で学問を続けようとしても夜になると疲れから勉強は思うように続かない、方谷の焦りはじりじりと精神を焼いた。

そんな折り、方谷は結婚した。相手は新見藩の娘で名を進と言った。学問の道を目指す方谷にとってこの結婚は忙しさに忙殺される日々からの脱出を願った一つの現実逃避だったのかもしれない。進との間に一人の子をもうけたものの、この結婚は方谷にとっても進にとっても大変不幸な結末を迎える、そして方谷の人生もこの結婚のあたりから、大きく動き出すこととなる。

文政8年、21歳の時、方谷の人生の最大の転機とも言えるかもしれない出来事が起こった。松山の片田舎、西方村で製油業を営む方谷農民に過ぎない方谷が、備中松山藩主・板倉勝職の目にとまった、勝職は神童方谷の噂を遅ればせながら聞きつけ、二人扶持の奨学金を出し藩の特待生として招き入れた。

人生最大の喜びだったかもしれない、今までかすんでいた目前の霧が晴れ、自分の未来像がくっきりと浮かび上がった。
「学ぶことができる! これで父母の志を継ぎ、お家の再興を果たすことができる」
藩庁からの帰り道、沙汰書を握りしめた方谷の足はいつの間にか弾んでいた。

藩公認の書生となった方谷は、まさに水を得た魚である。本業の製油販売もそこそこに学問に猛進した。まだまだ学びたい、今の上のレベルに登りたい、方谷の学問にかける思いは日を追うごとに高まった。しかし、案外早い時期この想いは大問題に変わる。丸川松隠という優秀な儒学者により10年間みっちりと勉強した方谷にとって、藩校有終館での学問はまるで物足りないものだった。

方谷は悩んだ、このまま甘んじて今の状態を続けるか、悩みに悩んだ末、方谷は師匠の丸川に相談した。
「安五郎、治国平天下を目指すならば旅立て。」
師、丸川松隠はそう言った。丸川の知人で儒学者の寺島白鹿の元に行き学問を続けるのが方谷にとっては最善である。丸川のことばで方谷の腹は決まった。
そして23歳の時、京都に遊学することを決意する。

文久10年(1827年)方谷は京都に旅立った。それは妻と生まれたばかりの娘を残してのかなり独善的なものである。いくら藩お抱えの書生になったとはいえ俸禄は二人扶持、妻と子、弟、継母を養うにはまだまだでりない、その上京都に行くにはそれなりの費用もかかる、たびの途中、死ぬ可能性もある。それでも方谷は旅立った。
家業の製油業の守はまだ14歳の弟、平人に任せた、どうしても、何が何でも京都へ。
京都へ立つ日、恩師丸川松隠よりある言葉が贈られた。
「儒教という学問には根元がある。探り求めてこい」



燃えるような闘志に後押しされてやってきた京都で方谷は打ちのめされた。
恩師丸川松隠のいう「儒教の根元」とは?
また国学である「朱子学」の「理」が何なのか、どうしても求める解答が導き出せない。京都の塾で一人座禅を組んで必至に考えても何の悟りも得ることはできなかった。

「ふがいない!」
自分に言った。猛烈な自己嫌悪が方谷を襲った。
「ただの井の中の蛙だ! 田舎の神童が自分を買いかぶりすぎていた」
そして、今回の京都遊学の期限はあっと言う間に訪れた。
方谷はただがっくりと肩を落として松山に戻るほか無かった。

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