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TOPページ神童誕生母・梶の死人生の転機2度目の京遊学
今からざっと200年前の文化2年(1805年)阿燐少年は生まれた。
(リンという字の正確な部首は王であるが、コンピューター内に正確な文字のフォントがないため火偏の燐の字を使う)

備中松山藩西方村、現在の岡山県高梁市中井町西方、当時としてもかなり田舎の山奥の僻地で現在高梁駅から車で行っても3〜40分かかる場所である。阿燐の生まれた家はこの地域の豪族で名字帯刀を許されていた家柄であったが阿燐の曾祖父がこの地域で事件を起こしたため家の財産は全没収、一家は追放処分となり御上の許しがおり、この地に帰ってきたのはそれから20年後のこととなった。

没落した名家をなんとか再興しようと阿燐の父は執念に燃えた、そんな環境に生まれたのが阿燐、後に松山藩をしょって立ち日本の幕末に大きな影響を与えた山田方谷であった。

阿燐の父の名は五郎吉、母の名は梶、二人の目的は「お家の再興」そしてその手段として選んだのが、息子阿燐の徹底的な教育だった。この時代、百姓の子が出世し名誉を得るには県と学問しかなかった、山田家は「お家の再興」という悲願を息子の教育に賭けた。特に母梶の教育ママぶりはすさまじく、また阿燐も母の期待に存分に応えていった。

阿燐は3才で漢字を覚え、4才になると筆で大書した額字を神社に奉納するまでになった。阿燐の大書は今も多く残り、その文字はとても4才の子供が書いた物とは信じがたい豪快なものである。

山田方谷と言う人物の一番の基礎はこの3〜4歳の時に形成された。山田家には非常に厳しい家訓があり阿燐の父五郎吉は幼い阿燐であっても容赦なく接した。家訓とは下のようなものであり一見するとものすごいけちんぼにも見えるが、文節をよく見るとその内容は自分に厳しく、他人には優しくと言う情愛に満ちたものである。成人した後の方谷は父を嫌ったが、その後の方谷の政策の基礎である「民のための政治」・「義と誠」といった基本理念はまさに父五郎吉から受け継がれた。

山田家家訓

一.献上米二合を毎日なすべきこと。
一.ご神仏お初穂はこれまでどおりなすべきこと。
一.衣類は木綿に限るべきこと。
一.三度の食事は、一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯。もっとも母上には三度とも米をすすめ、夫婦の米は倹約すること。
一.酒のたしなみは無用のこと。
一.客の饗応は一汁一菜かぎり。
一.労働は朝七つ(午前四時)より、夜は九つ(二時)まで。召使いの人は世間なみ。
一.履物は、わらぞうり、引下駄、わら緒にかぎること。
一.からゆ、さかやきは月に三度。びんつけは倹約に致すべし。高銀の櫛、算は無用。
一.もろもろの勝負ごとはかたく無用。
一.芝居その他の見物ごとはかたく無用。
一.遊芸はいっさい無用。

さて、そんなけちんぼ山田家であるが、お家の将来をしょって立つ阿燐の教育に関しては妥協はない。阿燐少年はわずか5才にしてふるさとから20キロ以上もある新見藩の儒学者・丸川松隠の塾にあずけられた。当時塾に入門するのは庄屋の子などかなり裕福な層に限られていた、しかし、お家再興の執念に燃える五郎吉は予算も度外視して息子を送り出した。逆に言えば上の倹約家訓は阿燐の教育費を捻出するための物だったのかもしれない。とにかく阿燐は5才にして親の期待を一身に背負わされた。


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