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倉敷・玉島の歴史

倉敷といえば美観地区や大原美術館で有名な岡山県を代表する観光地です。雑誌やテレビや度々取り上げられてきた白壁やアイビースクエアの蔦の外観など、風情ある町として知られています。

そんな倉敷ですが、町の歴史には備中松山が深く入り込んでいます。倉敷が歴史的に登場するのは900年代、藤原純友が瀬戸内海で乱を起こしたあたりからです。その後も何度か戦の場面として登場しますが、この当時、倉敷は小さな海沿いの町に過ぎませんでした。

1550年、備中松山の藩主が庄氏の頃、松山川(高梁川)の下流川口に当たる玉島湊と備中松山間の舟運が開かれました。そして1600年、天下分け目の合戦、関ヶ原の戦終了後、備中兵乱によって滅ぼされた三村氏に替わって備中の国(備中松山を含む)に備中国奉行として小堀正次が就任その息子、小堀遠州とともに備中松山城を拠点とし高梁川の高瀬舟での輸送の基礎を築きました。

江戸時代になり幕藩体制が確立して最初に松山藩主となったのは池田長幸でした。池田氏は外様大名で、1617年、鳥取から六万五千石で松山の地に移ってきました。家来とその家族を合わせて約三千人程度の家臣団を引き連れての転封であり、小堀氏の町づくりの基礎の上にたって、城下町の建設が活発に始められました。

また、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けたのも池田氏で、高梁川の下流には三角洲が発達し新田開発の絶好の条件であったため、池田長幸も早くから目をつけ、1624年、玉島長尾内新田十町歩を開発しました。


1642年、倉敷村が幕府直轄の天領となり現在のアイビースクエアの場所に倉敷代官所が建設されました、水谷勝隆が成羽から備中松山城主となり、柏島・乙島・黒崎などの村を支配する さらに、1643年には松山藩が玉島湊問屋の手形を発給するなど高瀬舟輸送のアドバンテージをとり海運はますます盛んとなってゆきます。


1652年、ついに高梁川河口から新見にいたる高瀬舟の航路が全通、高梁川の高瀬物流の基礎が完成しました。後の方谷改革でもこの高瀬舟の物流は非常に重要な要素の一つとなります。

1659年、その後の備中松山藩の町建設の基礎を気づいた水谷氏の時代となります。松山藩主水谷勝隆は玉島湊を築き高瀬通しの工事をはじめます。



時代は飛んで1868年、大政奉還とその後の大瀬い復古の対号令、により徳川幕府は失墜、新政府軍は倉敷代官所を没収、高梁川以東は備前藩(岡山)、以西は安芸藩(広島)が管理する事となりました。





アイビースクエア内にある代官所の配置図






SpecialThanks
写真撮影:草村克彦氏
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