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熊田恰、柚木亭にて切腹西爽亭・写真とアクセス倉敷・玉島の歴史

熊田恰、柚木亭にて切腹

「川田さん、あなたは確か、ここ玉島の出身でしたな」
熊田が話しかけたのは川田甕江、江戸藩邸で働いていた川田もまた藩主板倉勝静と供に大坂城にいたが、敗戦を受けて熊田らと供に行動し玉島にいた。

川田甕江(かわたおうこう・1830〜1896 )方谷から剛毅の剛の字を名前として与えられ、川田剛のなで知られる。方谷の門人の多くがそうであるが、川田も武士の子ではない。ただ、川田が他の多くの方谷の門人と大きく異なることは「川田は牛麓舎の門下生ではない」ということだろう。

3歳で父を、6歳で母を亡くした川田は母の実家で育てられた、幼い頃から大変な秀才だったがその身の上からか才能を鼻に掛けることのない人情家だった。幼い頃からの苦学が実を結び、28才の時に近江大溝藩の100石取りの儒学者として内定した。

幸か不幸かこの時、この才人に目をつけた人物がいる、言わずとしれた山田方谷である。
方谷は川田と同郷で歳も近い三島中洲に川田のヘッドハンティングを命じた。
なんと条件は近江大溝藩の半分の俸禄50石取りである。その後28才までの10年間江戸松山藩邸で学問を教えていた。

さらに驚くことは、川田はこの半分の俸禄の条件を快諾し、松山藩士で川田と同郷の恩師鎌田玄渓に感謝状まで出す始末。天才の行動は時として理解に苦しむが、手取り半分で松山藩士になった川田も、この条件で自信満々川田をスカウトした方谷もやはり常識人ではない。

しかし、この選択の後、人10倍くらいのさんざんな苦労を経験するが、後には文学博士の称号を受け、東京大学教授、貴族院議員、学士員会員などにも選ばれる、川田をスカウトした三島、薩摩の重野成斎と供に明治の三大文宗と称された。死後は宮中顧問官にもその名を連ね、漢文学者としての名前と、多くの著書を残した。



「川田さんにひとつ頼みたいことがある、どうやら藩侯への恩、この命をもって報いるときが参りました、ついては鎮撫使へ出す嘆願書の草案を書いてはくださらんか、あなたならば任せられる。」
熊田は川田に深々と頭を下げた、この二人、これまではほとんど面識はない、しかし、熊田は川田のことはよく知っていた。

嘆願書は程なくできあがった、その後、熊田自ら1,2カ所修正し、本文を伊藤仁右衛門に代筆させ書判を自書した。

−君主勝静公を不義に陥れ、松山藩諸士が鳥羽伏見の戦いに参加したとの疑いを受けたことは、自分一人の不調法であり、一死を持ってお詫びする。水野以下150余名の助命、よろしくお願い申し上げまする−


川田もまた熊田のことは知っていた、「不平不満があっても決して怒ってはならない。怒りは武士の恥である」熊田の口癖は遠く江戸までも聞こえていた。松山藩きっての剣の使い手、松山藩最強部隊熊田隊の隊長であり誰もが否定することのない真の侍であると・・・


1月22日午前11時、熊田の切腹は柚木亭(西爽亭)書院次の間にて執り行われた。
介錯は熊田一族きっての剣の使い手、熊田大輔、大輔の手に恰が大坂での別れ際、藩侯板倉勝静より賜った名刀正宗が握られていた。

先だって恰は大輔にこう言っていた。
「大輔、よく聞け、すぐに介錯はするな、儂が「介錯を」と言うまで待て。」
大輔は静かにうなずいた。


「お覚悟の時でございます。」
川田が低い声で熊田に声を掛けた。それ以外、何も言えなかった。何もできない自分にどうしようもないもどかしさを感じた。

「よし」
川田の言葉にそう答えると熊田はゆっくりと次の間に進んだ。
次の間には血を目立たなくする真っ赤な毛氈が惹かれている。

熊田は襟を正し、ゆっくりと毛氈の中央に正座し、そのまま東へ向かい深々と頭を下げた。江戸にいるだろう藩主勝静公への最後の別れであった。そののち両脇に並ぶ検視役と藩重臣に軽く頭をたたかれた。これから死に行く者への儀式である。

介錯の大輔が静かに恰の左手にうずくまった。恰は白い布で覆われた脇差しを握ると、おもむろに自らの左腹に突き刺し、そのまま横一文字にかっさばいた。鮮血が恰の白い着物をみるみる赤く染めてゆく、一拍の後後ろを振り返り

「大輔、介錯を・」

熊田一族一の剣の使い手、大輔の名刀正宗が一閃、恰の首は真っ赤な毛氈の上に堕ち、血柱が次の間の天井を真っ赤に染めた。

【恰の血が染めた天井】

「おてぎわ」
松山藩士神戸一郎は思わず声を上げた。その声が見守る藩士達の緊張の糸をぷつりと切った。


柚木亭のそこかしこからすすり泣きや号泣、怒号声が混ざり合った。多くの者達の慟哭の声が柚木亭をうめた。

柚木亭(現西爽亭)の近くに羽黒山というところがある、玉島の人たちはその山頂に熊田神社を造り遺刀を納めた。玉島の地を戦火から救った英雄として熊田恰は玉島市民の手によってに祀られている。

岡山藩主池田茂政は熊田の忠義に金15両と米20俵を贈った。松山藩もまた熊田の忠義に老中格を贈り米30俵を贈与した。


方谷が熊田の最後を聞いたのは長瀬の自宅だった。早馬に乗った使者は熊田の最期を事細かく方谷に伝えた。
藩民にに1戸の焼失家屋もなく、ただひとりの死傷者もなく静かに軍門に下れたことを密かな誇りとしていた方谷にとって、この思いもしなかった犠牲はどれほど悔しかったことであろうか。

「すまん、熊田、すまん、熊田、死ぬのはワシのはずだった・・」
わかっていたが、そのあまりに悲しい現実は、方谷の理性で固められた鋼の心を貫いた。
人前では泣かぬと言われた方谷が、人目をはばからず泣いた。



【道源寺内にある熊田恰の墓】


【高梁市、八重籬神社内にある熊田神社】


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