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備中松山平成塵坪紀行

1859年9月16日・17日
原 文
   十六日 晴 先生逗留
朝より人来、先生一寸
出来り、亦昼後より人来、
不絶、酒ありて、咄す暇も
なく、夕方三島来、此時抔ハ
先生も余程酒を呑み、
三島之言、不得正を極論ス、
傍ニありて、先生、三島之
趣ヲ見る処あり、三島
帰りて後、又々人来り、
終ニ夜七ツ前迄酒ある、
直ニ出ルと被謂けれとも、
留て寝る、此夜地震、此間毎日なり

16日 晴れ
今日は朝から人が出入りしており、先生もしばらく出かけていた。また、昼を過ぎても人がきては絶えず誰かが酒を飲んでいる。
全く話をする暇さえない。
夕方になって三島がきた、そのときなどは先生もよほど酒が回っていたか、三島の一言に対して、完膚無きまでに論破してしまった。それにしても、先生は三島に関してもとてもよく見ている。

三島が帰った後も、また誰かが来た。結局この日は明朝4時頃まで酒の絶えることはなかった。

この日もまた地震があった。このところ毎日地震がある。
   十七日 晴
先生、朝五前、水車を立
帰る、北海之小鯛と云て、
大なるヲ被下、前夜之
松茸、彼是心配、忝事也、
先生を送て飛石迄
行、昼頃水車帰、
夫より掃除、誂物、終りて
花屋来る、誂物ハ大躰
覚ある故一々不記、夜、進
暇乞ニ来る、扇子ニ詩ヲ書て
被送、進帰りて、栄太郎
来、夜四頃迄談帰、
昼三島来、花屋ニ宿ス
17日 晴れ
先生は朝九時前に水車を立ち、一旦自宅の方へ帰られた。
その際、「北の海でとれた小鯛だ」といって、大きな魚を下さった。
前日の松茸の一件といい、そのほかかれこれと心配をかけた上にこんな物までいただき、全くかたじけない事だ。
その後、先生を送って飛石までゆき、昼頃に水車に帰ってきた。

昼からはひたすら「水車」の掃除に専念する。
水車を立つ準備が完了した、荷物を整えていったん「花屋」へ移る。
その夜、進氏に九州方面への遊学の旨を伝えると、進氏は扇子に詩を書いて送ってくれた。その後、進氏が帰った後に栄太郎が別れの餞別にやってきた、栄太郎もその夜10時頃まで話をした後帰宅。
そうそう、昼に三島中洲もやってきた。



18日の朝、継之助は松山を発つと南に向かって歩き始めた。
この後、継之助は香川、福山、広島、山口、そして長崎、熊本と西国遊学の旅に出る。再び松山に帰ったのは2ヶ月後の11月3日だった。

継之助、方谷が旅立つ16日、17日には餞別にいろいろな人が次々と訪れる様子がわかる。このころになると継之助もすっかり回りとうち解けており、皆が本音で話している感じがする。
日記の中で三島中洲が方谷にとっちめられるシーンが出てくるが、継之助死後、まさか自分の碑文をこの三島中洲が選ずるとはユメにも思わなかったと思う。




 

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