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備中松山平成塵坪紀行

1859年7月22日〜8月1日
原 文
  廿二日 晴 昼頃少雨 夜雨 花屋

   廿三日 晴 夜雨 花屋
   廿四日 晴 夕方雨 花屋
如何ニも道中之疲故か
頻りニ寝むく、あくまて
休、其暇ニ、兵庫より筆も不取
故、失忘も多けれとも
大略を記ス、此二日之
仕事なり

  廿五日 朝曇 昼後より風強 雨降
   廿六日 晴  四ツ時分霧雨 其又晴
   廿七日 晴
22日 晴れ 花屋にて 昼頃に少し雨 夜にかけては雨

23日 晴れ 宵のうち雨 花屋にて
24日 晴れ 夕方雨 花屋にて
長旅の疲れが出たのだろうか、しきりに眠い。
しばらく休むこととする。その間に、兵庫あたりから
書いていなかったので、だいぶん忘れているだろうが大まかな日記を書こうとおもう。
この二日間の仕事はそれだ。


25日 朝の内曇り 午後より強風を伴う雨
26日 晴れ 午前10時頃より霧雨 その後晴れ
27日 晴れ



   廿八日 晴  是より後、八月七日附ル
会藩秋月悌次郎来ル、
土佐之政事、面白咄ヲ聞、
其一二事ハ、大晦日之夜、
士屋敷ニて懸取之済迄ハ、
夜四ツ迄提燈ヲ門前出置、
四過ニ猶出し置ハ、見廻り之
役人何故ニ出置と問、懸不払
と答れバ、其座ニて役人相払へ、
翌年之高ニて引取、其上叱ヲ
受」商売多分之利ヲ得ル
事不出来、大坂ニて、幾等ニて
買故、幾等ニて売ルト、書附ヲ

出ス由、町人モ如前士分之厳重
対しても猥り之事ハ不出来
旨」足軽ハ高足(バ)之物不成由」、
少しヅヽ咄しもあれとも忘ル、
右悌次郎之談


28日 晴れ これより先の記録は8月7日に書いた物。

会津藩の秋月悌次郎(注1)という男が松山藩に遊学にきた。
その男より土佐藩の内政の事情など、いろいろと興味深い話を聞いた。その中の話を一つ二つ書くと、大晦日の夜、武家屋敷では借金の代金を取り立てが済むまで、午後10時頃まで提灯を門の前に出しておくという。
10時をすぎて、支払いがまだでためらって提灯を出したままにしておくと、市中の見回りの役人が「なぜ、まだ提灯を出している?」ととうという。
「借金をまだ払っていないのだ」というと、役人は「それでは私に払いなさい」という。
役人は債権者の商人に替わり借金をとりたて、年が明けてから債権者の商人にその金を支払う、その際、取り立ての手数料を徴収し、その上取り立てれなかった商人は叱りを受けるという。
結局年末までに売掛金を回収できなかった商人は利益を出すことができなかったという。

大阪でいくらで買うとかいくらで売るとかいっていると値札を見せられた話。などなど
ほかにもいろいろとはなしはあったが忘れた。
これまでの話は秋月悌次郎から聞いた物である。


   廿九日 晴
今治之人(名字忘ル)、秀之助来ル

   八月朔日 晴
秋月ハ帰ル、三嶌貞一郎来ル、
是ハ被召出ニ付、引移之ため也、
山田之咄ヲ色々致ス
29日 晴れ
今治の、名字は忘れたが秀之助という男が遊学にきた。

8月1日 晴れ
秋月悌次郎は旅だった。 三島が来た。
三島君が藩に召し出されたため、引っ越しのためらしい。
その際、山田先生の話をいろいろと聞いた。

(注1)秋月悌次郎
(1824〜1900)
会津藩士、能力のある武士として会津藩内で頭角を現し、藩より江戸遊学のを任命された。西国の遊学も藩命による物。藩主松平容保が京都守護職を拝命した際には、公用方として抜擢された。
しかし、藩内には敵も多く秋月を抜擢した家老横山主税が死去すると蝦夷地代官に左遷された。
享年77歳



 

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