備中松山平成塵壺紀行トップページ河井継之助プチマニアTOP山田方谷マニアックストップページ
備中松山平成塵坪紀行

1859年7月19日 20日
原 文
   十九日 晴 花屋
朝、土屋・松城藩士(稲葉隼人)と三人
談ス、稲葉ハ不足取者なれ共
ホラガイハ余程巧、未聞処ナリ、
昼後案内ありて、学問
所土屋と供ニ出ル、大勢
列座、色々之談に及、

夕刻帰宿、夜ハ同宿
三人と談ス




19日 晴れ 花屋に宿泊

朝、土屋、稲葉と3人で談笑した。
稲葉はとるに足らない男であるが、ことホラガイを吹かせたらなかなかすごい。このうまさは今までにも聞いたことがないくらいのものである。
昼過ぎ、松山藩の学問所の「有終館」(注1)に行ってみられたらという案内があったので会津の土屋とともに早速行ってみた。

有終館では大勢の学生が列座し、大変活気があった。
夕刻には花屋に帰り、夜は同室の2人と話をした。
   廿日 昼晴 夜雨 花屋
昼後、山田先生之出懸り
宅被招、土屋と共ニ行、進と
神戸と来り談ス、土屋ハ
諸藩ヲ尋、学校之様子始、
衆人ニ応接、数々珍敷咄も
あり、淡州之土兵」ヲロシャ
船乗りし咄」小浦惣内之咄」
姫路之学校」(水戸ノ咄)、面白談数々
アル、夜四ツ頃帰宿
20日 昼は晴れ、夜は雨 花屋に宿泊
昼過ぎより山田先生の松山城下での宿泊先となる宿「水車」(注2)に招かれたので土屋と2人で出かけた。

水車につくと進と神戸(注3)が来たので皆で話をした。
中でも気を引いたのが土屋の話だ、会津の土屋は今までにも各地を旅で回っており、各藩の学校の様子や各地の人となりの違いなど様々な珍しい話を聞いた。

そのほか、淡路の士兵の話、ロシア船に乗った話、小浦惣内の話、安政の大獄の話、姫路にある仁寿山学問所の話などいろいろと聞いた。

夜10時頃に花屋に寄宿し就寝。




(注1)有終館
備中松山藩の学校として建校されたが、天保3年(1832年)の大火により、内山下にあった元有終館が類焼。時の学頭奥田楽山が中之町に再興した。
その後、同10年にはまたまた焼失し、嘉永4年に山田方谷が再興した。現在、当時の建物はなく同敷地内には高梁幼稚園が建つ。 園内には方谷手植えの松と云われる見事な松が数本あり、今も勇壮な姿を見せる。
継之助が泊まった花屋とは目と鼻の先で歩いて一分ほど。

   

(注2)水車
もともとは板倉勝職の別邸として使われていた建物で、継之助が松山藩を訪れた頃は方谷の城下の家として使われていた。建物の横に水車がついていたことから「水車」と呼ばれた。
現在水車のあった場所には碑のみが立っている。すぐ上には吉備国際大学が立つ。
   
水車跡地から川沿いにすこし登ると水車のついた小屋などを発見することもできる。

(注3)神戸謙二郎
松山藩士。山田方谷の門弟。諱は友諒、号は秋山。昌平黌に学び後に藩校有終館の会頭となった。

 

備中松山平成塵壺紀行トップページ河井継之助プチマニアTOP山田方谷マニアックストップページ



  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所