第50話「友よ」

小雪の死を受け生気を失っていた方谷のもとに旧岡山藩士で方谷の門人である谷川達海が訪ねてきた。谷川は陽明学の大樹として岡山で教鞭をふるってほしいと方谷に要望した。
しかし、寄りつく島もなく谷川の申し入れは断られた。

ガックリと肩を落とし、あきらめようとした矢先、方谷の口から意外な言葉が漏れた。
「閑谷学校–閑谷学校を再興するのでしたら、お話考えなくもありません。」
方谷は熊沢蕃山の信奉者である。熊沢の作った閑谷学校の再興は方谷にとっても夢の一つだった。
それからは働いた、小雪を無くした悲しみを振り払い、半年は岡山、半年は小坂部と老体にむち打って精力的に教壇にたった。

そんな方谷にとってこの上もなくうれしい出来事があった。
明治5年4月、新政府から釈放されたもと藩侯板倉勝静が方谷のもとを尋ねてきた。勝静は、どうしても方谷にあって一言詫びがしたかった。久次郎はこの日のために長瀬の家を整備した。

方谷は久しぶりにあう勝静を前にして、深々と頭を下げた。
「これまで、数々のご無礼、お詫びの仕様もございません。」

「気にするな、私の方こそ詫びねばならん」
方谷と勝静は三日三晩を共に過ごした。
四日目の朝、平民の服を着た勝静は長瀬を去った。 静岡で小さな茶園を営んでいるという。

10月、盟友矢吹久次郎が急死した。46才の早すぎる死だった。

備前と小坂部を往復していた方谷だったが明治9年の秋、小坂部で病に倒れた。
門下の塾生達は、方谷倒れた後も誰一人塾を去ろうとはしなかった。
明治10年6月26日、山田方谷は多くの弟子達に看取られ、73年の人生に幕を閉じた。

1871年 廃藩置県
1872年 閑谷精舎 開学
1873年 地租改正

1877年 方谷没す