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福西志計子と陽明学
福西志計子は、弘化4年(1847)12月13日、松山藩士福西郡左工門(伊織)の長女として、市内御崎町で生れた。志計子が7歳のとき、父を失い、母1人で育てられた。志計子の母は非常に教育に熱心な「超教育ママ」であり、女手一つで育てられる志計子に教育をもって将来を与えようとした。

そして、志計子7歳の当時の教師こそ、「山田方谷」その人だった。当時、松山藩士「福西家」は方谷の私塾「牛麓舎」のお隣さんだった。このとき方谷47歳、元締兼吟味役で・藩財政再建のため松山に奔走していた。もともと教師だった方谷は教育に熱心で、その上教育ママにつれられた志計子に幼いときの自分を見たかも知れない。女子供に勉学は不要と言われた時代だったが、方谷にとって「学びたい人間であれば、誰であろうと学ばせる。」というのが信念の方谷にとって志計子の受け入れは当然のことだった。また、志計子も母や報告の期待に応え、熱意を持って勉学に励んだ。

志計子は文久3年(1863)17才の時、井上助5郎を養子として迎え、結婚生活に入り家庭の人となった。このあと10年間の記録はほとんどなく、志計子の詳しい足取りはわかっていない。しかし、明治維新の1大変革期で、旧藩士の生活は困難を極めた時であったから、安易平凡な生活は考えられず、困苦欠乏、その顛難によって、彼女の精神が百練千磨されていった期澗なのではなかろうか。

明治8年(1875)29才の時、志計子は盟友・木村静と共に岡山に出て、岡山裁縫伝習所(県立の裁縫費と思われる)に入って修業し、9年7月業を終えて帰高、2人は共に同年10月、高梁小学校に附属して新設された高梁女紅場(十年裁縫所と称す)の教師になった。

明治12年(1879)10月4日、高梁伝道の父といわれる岡山の専任伝道者金森通倫や、岡山の著名な社会事業家中川横太郎(健忘斎)らが、県会議員柴原宗助の導きで、キリスト教伝道のために来高し、志計子や静はこの時に初めてキリスト教に入信した。この時の講演会の会場や、講演内容などは明らかでない。

翌13年(1880)新島嚢(当時38才)が来高し、2月17日夜、裁縫所を会場として宣教の演説をした。彼女らはキリスト教の平等と献身の教えに深く感動し、志計子は静らと婦人会創設に奔走し、夜間の会合が続いた。ところがこれに対して、世人から、「婦人会活動は、風俗改良に名をかるキリスト教の伝道で、夜間に度々会合するのは、風俗上好ましくない。」と問題にされた。

会合の会場が裁縫所になっていたから町議会で、「新宗教に傾いた入を、裁縫所の教師にしているのは好ましくない。」と、志計子と静の地位までも問題にされ、町議会は、キリスト教を捨てるか公職を捨てるかの、二者選択を二人に迫り二人は職を去った。

職を失った志計子の収入は激減、このとき他のキリスト教信者と同じよう高梁教会で働くなど道はいろいろとあったかも知れない、しかし志計子はその道は選ばなかった。明治14年12月10日に高梁向町の黒野宅を借って、私立裁縫所を開設した。これが順正女学校の前身で、この時志計子35才であった。

開設の当初は生徒数がわずか30名、世人は中途で廃絶するであろうと予想していたが、この予想に反して生徒は次第にふえ、15年の秋には90名に達した。志計子らの飽きることを知らない熱意は、ついにこの私立裁縫所を、関西における有数の私立女学校に、発展させ、校運を隆盛に導いたのである。

明治15年4月26日、キリスト教高梁教会創立に際して、柿木町平野宅を借りた仮会堂の式場で、男女15名が金森通倫によって洗礼を受け、献身を誓いあった、その中に志計子と静の2人もこの15人の中にいた。

洗礼後も、志計子は教育者こそ自分の転職とし、周到精密な経営手腕を発揮し市立の裁縫所の発展に力を尽くした。しかし又、裁縫の授業だけででは真正な女徳は養い難く、女子の地位向上のためには、ぜひ文学科の必要であるということを痛感したのもこの頃である。

明治17年は、高梁教会迫害の頂点ともいえる年であった。高梁におけるキリスト教迫害は全国的に見ても相当に激しい部類の物で、「ヤソ教」とよばれた。なぜ高梁でここまで迫害されたのか、1説には元藩主板倉家は「島原の乱」の時代、先祖をキリスト教信者に殺され、板倉家を誇りに思う高梁の民にとっては「敵」以外の何者でもなかった。また、徳川に非常に誓い位置にいたため、全国的にも徳川の教えを守る風潮があったともいえる。

とにかく迫害は日を追うごとに激しくなりなかでもこの年の7月6日は激しく、夜の9時頃から群衆が紺屋町の説教所(仮会堂・現在の鍛治町郵便局の西隣りあたり、河井継之助の宿泊した武宿花屋のあった場所あたり)の辺りへ大勢集って、太鼓をたたいたり大声でさわいだり、色々ないやがらせをして説教を妨げ、それのみか、説教所の前を流れる谷川の、河原の石を拾って投石する者も多かった。
このような迫害投石事件の石は、小山のようになったといわれている。柿木町西北隅にある現在の高梁教会堂(明治22年9月15日献堂)の礎石の下には、現にこの時の投石が用いられていると言われている。

だた、不思議なことに、このような迫害も女学校のためには大きな妨害とならないで、却って発展の途につく方法となった。現在でも謎とされている用件の1つだが、筆者はここにも方谷の影をなにげに見つける。高梁の人は「方谷」に関わる物には1切手を出さない。明治初めの百姓1揆でも「山田方谷」という札を貼られた”おかもち”には百姓は絶対に手を出さなかったという。福西志計子が方谷の門下生だと言うことは、皆が知っていたことで、そのため高梁の人は志計子には手を出さなかったのではないだろうか。

明治18年1月7日の、志計子はついに「順正女学校」を発足する。キリスト教を信条とする志計子であるが校是は「和魂洋才」であった。順正女学校には県内はもとより遠く県外からの入学者も多く、女学校として発足以後は、ますます発展の道を進んで行った。順正女学校の伝統的な誇りは、私立裁縫所以来の実技重視で、卒業生はみんな在校中の実技のきびしかったことを物語り、卒業後における経験から、自分の持っている実技の、水準の高さを自覚し、それに誇りをもっていたと言われている。

もうひとつ志計子から方谷の影を感じる物がある。それは「順正女学校」という校名で、「順正」とは儒学の基本4書の「孟子」に出てくる「以順為正者。妾婦二一中土之道也」を語源としている(もう一説、史記からという説もあるが、いずれにしても儒学からの出典となる)、プロテスタントである志計子が校名を儒教の言葉に求めた訳は何か。

そも順正という校名の命名者は吉田藍関である。彼は山田方谷の門下で、志計子や静とは、かつて高梁小学校で職場を同じくしていた時の上司であり、また志計子にとっては方谷門下の兄弟子にもあたる。彼は漢学者の校長でありながら、町民や町議会の非難の中で、高梁小学校の校舎を、キリスト教関係の会場として、使用することを認めてくれた。その温かい理解と勇気に信頼し、建学の精神を象徴する校名を、藍関に依頼したものであるが、やはり志計子にとって(当時の高梁の人にとって)方谷は神のような存在であり、幼くしてその方谷に直接交わり、彼の改革の姿勢・考え・行動を直に見た志計子にとって、方谷の存在は常に頭のどこかにはっきりとあったのではないだろうか。

そう考えると、何故志計子がキリスト教に目覚めたのか、ということになるがひとつのヒントをキリスト教の研究者「内村鑑三」が語っている。

「旧幕府が自己の保存のために助成した保守的な朱子学とは異って、陽明学は進歩的前望的にして希望に充てるものであった。それが基督教に似てゐることは従来1再ならず認められた所である。事実、その事も一つの理由となって基督教はこの国に於て禁止せられたのであった。『此は陽明学に似てゐる。我が国の分解は此を以て始まらん』。維新の志士として有名な長州の軍略家、高杉晋作は、長崎にて始めて基督教聖書を調べて、さう叫んだ。基督教に似た或るものが、日本の再建に参加した1つの力であったといふことは、我維新史における特異なる1事実である」『代表的日本人』

そう、陽明学とキリスト教はよく似ているのである。
実際、陽明学を志し、のちにキリスト教の信者となった物は日本中に存在する。
方谷は志計子らに陽明学は教えなかった、しかし、方谷の体中からしみ出ていた「陽明学」の気や良知、知行合一の行動学を志計子は幼いうちに体験として感じ取り、その後、方谷の教えを「キリスト教」の中に見つけたのではないだろうか。
これが、福西志計子の中に見る「方谷イズム」である。



 




  

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