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参考文献と書籍紹介
新島襄と備中松山藩
高梁市内には県下でも最も古い教会があるように、維新後、高梁では全国でも有数のキリスト教文化が花開いた。高梁でキリスト教がここまで盛んになったのは偶然か、必然か、高梁のキリスト教信者らは、キリスト教の福音だけでなく、ヨーロッパの医療・文化・音楽・女子の教育についての知識を高梁にもたらした。この宜教医などの影響があってか、高梁では、多くの医師たちがキリスト教に関心を持つようになり、高梁での近代的医療が発達する基礎つくりにもなったと言われている。

キリスト教の伝道者として、高梁には多くの著名人が訪れた、その中でも有名なのが新島襄である。新島襄という名前は、多くの人が知っている。同志社の創始者、明治キリスト教の代表的な伝道者、日本のキリスト教文化は新島襄なしには語れないほどの功績を持つ人物である。しかし新島はなぜわざわざ高梁までやってきたのか、はあまり知られていない。じつは新島襄がキリスト教に目覚める過程には、備中松山藩と非常に深い関わりがあった。

新島襄は1843年(天保14年)上州安中藩(群馬県)の江戸藩邸で生まれた。父の名は新島民治
(にいじまたみはる)、安中藩の藩士で江戸藩邸仕えだった。当時の安中藩の藩主は板倉勝明、安中藩板倉家は備中松山藩板倉家の分家にあたる親戚になる。

1857年、安中藩主・板倉勝明が死亡し、安中藩の教育政策が大いに後退したことがあった、このとき新島は藩に意見し、藩の祐筆補助を命じられた。その後も藩の教師・尾崎直記、添川廉斎らから漢学を学び、漢学(朱子学・儒教)を中心とする江戸当時の学問の習得に努めていた。そんな最中、敬愛する添川廉斎が1858年に死去、悲嘆に暮れていた新島の新しい漢学の先生となったのが親戚藩・備中松山藩の藩儒「川田甕江」だった。

川田甕江は備中の国玉島の港問屋の次男として生まれた、幼少より学問に励み、1857年には江戸で近江大溝藩の「百石取りの藩儒」として使えることが内定していた。将来を約束されていた身であるはずの川田をイバラの道(備中松山藩)に引き込んだ張本人が山田方谷である。

川田甕江という人材がどうしても欲しい方谷は、学生時代、川田と交流があり同郷倉敷出身の三島中洲をヘッドハンターとして江戸に送り込んだ。三島は川田の説得に際し、江戸松山藩邸の藩儒として50石取りで使えてくれ(なんと、大溝藩の半額!)という条件で川田を口説いた。さらに驚くべきは、このとき川田は方谷のもとで働けることを嬉々と喜び松山藩入りを快諾したという。

そんなことで江戸松山藩の藩儒として在籍していた川田は、親戚藩・安中藩の藩儒不在のの穴を埋めるため、江戸安中藩の臨時講師として新島襄らに漢学を教えることとなった。川田との出会いはその後の新島の人生を決定づけた出会いといえる。

この頃、川田は方谷の命をうけ西洋式の大型船の購入に東奔西走していた、川田は安中藩の新島らに漢学を教えに行くたびに、西洋船購入の苦労話をしていたのではないだろうか。そして、1862年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入した。

同時期、新島は1860年に江戸湾でオランダ軍艦を見て、その偉容に驚愕し、幕府の軍艦教授所(軍艦操練所)に通い、数学、航海術を学ぶなど、大型船への興味を増していた、川田は快風丸の処女航海にあたり、教え子であり、軍艦教授所へ通っている新島に初航海航海の協力を求めた。

快風丸の初航海、江戸から松山藩の飛び地玉島までの長旅の中で、新島は広い世界を知った、のちにこのたびの記憶を綴った「玉島紀行」の中で新島は「この航海は私にとって非常な喜びだった。私の青春のすべてを過ごした江戸藩邸、天は4角である、と思うようになっていたあの場所から遠く離れて生活したことは、とても為になった。いろいろな人と会い、様々な場所を見るという初めての体験をした。この航海によって私の精神的な視野がうんと広がったことは明らかである。」と追懐している

快風丸での初航海の翌年、海外の知識に惹かれる新島は『ロビンソン・クルーソー物語』の日本語訳、アメリカ史に関する漢訳の書物(『連邦志略』)や聖書の物語などをつぎつぎと読み、そのなかで「天父」を発見する。

このあと、もう一度快風丸の航海に同乗する機会を得た新島は、行き先の函館で、しばらではロシア領事館付の司祭、ニコライ神父の日本語教師として働き、しばらく後、備中松山藩の藩士・塩田虎尾の斡旋によりアメリカ商船に乗り込み脱国、アメリカへと旅立った。

道中、最初に上陸した香港で、H.S.テイラー船長に小刀を買い取ってもらい、その金で漢訳の新約聖書を購入、「ヨハネによる福音書3・16」に感銘を受けキリスト教へ心惹かれてゆく。

新島が帰国したのは明治7年、すでに江戸幕府は崩壊し、明治新政府が樹立していた。新島が世話になった備中松山藩は廃藩置県によりすでになく、方谷も高梁の地を去ったあとのことである。

明治13年2月(1880年)新島襄帰国より6年が経過したころ、新島は高梁の地に足を運んだ。表向きは「キリスト教伝道のため」という理由であるが、筆者はそれだけではなかった様な気がする。備中松山藩は新島襄にとっては非常に恩義のある忘れられない存在だった。

余談だが、新島は来高の祭、松山藩元藩士・原田亀太郎の実家を焼香のため訪ねた。原田亀太郎とは、新島が密航を企てた元治元年、藤本鉄石や吉村寅太郎らと大和で挙兵した「天誅組」のメンバーで、京都堀川の獄舎で斬に処せられた人物である。新島より6歳年上で江戸藩邸で共に川田から漢学を学んだ同門だった。

さて話は戻る、江戸時代は禁教とされたキリスト教だが、開国後宣教師が来日するようになり、明治6年禁教令が廃止されると全国的に発展してくるようになっていた。新島がキリスト教伝道のため高梁を訪れたのは明治13年だが、高梁にキリスト教そのものがもたらされたのは、前年の明治12年、柴原宗助という人物の功績である。

柴原宗助は、井原で生まれ本町の酒造業の家を継ぎ第一回岡山県会議員に当選し、自由民権運動をおこして国会開設のための運動をすすめていた。彼は、岡山のキリスト教指導者を高梁に招いて講演会を開くため努力を重ね、金森通倫や中川横太郎、アメリカの宣教医であるJ・C・ベリーなどが毎月高梁に来てキリスト教伝道のための講演会を新町の重屋旅館で開くようになった。

そして新島である。彼は2月17日から20日まで高梁に滞在し、当時の高梁小学校附属の裁縫所で中川横太郎らと講演をした。初日には約3百人の人々が集まり、2日目になると四百人に増え、会場はいっぱいになったと言われる。こうして、新島嚢の高梁訪問は、高梁の町の人々に強い印象を与え、高梁におけるキリスト教の歴史的伝道者の一人となった。

そんな新島嚢の講演に深く感銘し、
伝道に影響を受け活躍した女性に福西志計子と木村静がいた。




  

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