ごろはまさんが二松學舍大学大学院文学研究科教授の小川晴久さんに公開許可を得てマニアックスあてに送っていただいた論文です。
また、ごろはまさんに校正までしていただき本当の心より感謝です。

<(_ _)>
是非是非一読を!!
(以下ルビは< >で付した。このうち「・」や「、」を付されたルビは割愛させていただいた。また変換できない漢字は*で、できるだけ解字を示した。不十分な復元で原文を損なうことになったことをあらかじめお詫びしておきたい。ごろはま)

Contents

王陽明の実心実学性

小川晴久

はじめに

私は陽明学徒ではない。どちらかと言えば朱子学徒である。認識の客観性を重んじなければという点においてである。
しかし陽明学の命題で二つだけ特別な関心を寄せるものがある。一つは畏敬の心を持って。一つは愛着の心を持って。
「知之真切篤実処、即是行。行之明覚精察処、即是知。」(伝習録巻中)

「与其為数頃無源之塘水、不若為数尺有源之井水、生意不窮。」(同巻上)
後者の源のないため池の水よりも、源のある井戸水であれ、という命題は極めてわかりやすい。こんこんと湧いてくる井戸水というより泉の比喩、これは生きていることの象徴である。これは絶えず活しておれ!という要求でもある。
畏敬の命題は知行合一の、これ以上の規定はない前者である。

前者の命題で比較的わかりやすいのは、後半部である。自分の行動(ふるまい)が明覚に、精察に自覚されたもの、それがその人の知(認識)であるという指摘である。その人の行動(ふるまい)を見ていると、その人の知(認識)の程度がわかるという指摘。これは自分ではわからない。第三者だとよくわかる。

難しいのは前半部の命題。その知がその人にとって真切(本物で切実)であって、かつ篤実(中味が厚く、堅固)であるとき、それはその人の行動(ふるまい)になるという。その知がその人の身を切るように切実であるとき、痛さを伴って身振いや表情に表われざるをえない。例えば、自分の恋人が不貞をはたらいている現場を目撃してしまった場合(シモーヌ・ヴェーユの挙げる例)、昔虎に襲われたことのある人の虎の認識(程伊川の挙げる例)。こういう身を切るような、痛みを伴うような認識以外のものの場合は、すべて身についていない知(認識)と言えるだろう。時間と共に忘れてしまう知。これはどれだけ沢山あるか、わからない。

陽明学の二つの命題に共通するのは今(現在)という要件である。生きている、活しているというのは今この瞬間のことである。知行合一の本質も今その瞬間である。待ったなし。今のあなたの知(認識)はいかなるものか。それは今の瞬間身についている知(認識)のことである。

その上で二つの命題のうち畏敬の対象となるのは知行合一の命題である。なぜであろうか。
知は精神的なもの。行は肉体的なもの。一見前者の方が価値があるように思える。しかし、それは両者が切り離された場合のこと。しかし、両者が切り離されたとき、それは両者の死を意味する。両者がそれぞれ魅力をもつのは生きている条件のもと。つまり両者が一つに合しているときである。つまり知行合一とは、知も行もともに相手を自己の条件としていること、その上で互いに自己の反対物になり切ること、つまり行を知にすること、知と行にすることである。

知は蓄積されうる。文字や記号の力で。様々な表現方法で。知的なものの蓄積、文化の形成と保存はそれである。
行はどうであろうか。行はその人が死ぬことによって蓄積はされない。しかし知を結晶させ、知として対象化(知に形を与えること、文章化ほか)させるところに行の蓄積を見ることはできるが、知と比べると行は肉体的でありすぎて不器用であり、脆<もろ>い。
知や文化の蓄積はそれを担った行の労力の結晶であるのだが、行の蓄積は見えにくいし、捨象されやすい。行は一々死を媒介にして断絶がある。しかし知にはそれが見えにくい。歴史的には断然知が優位に立ち、精神が物質を支配する表象が生まれる(観念論の根拠)。知と行の関係で言えば、知先行後説や朱子学は知の優位性に立脚する。

しかし、陽明学の異議申し立ては、行から切り離された知、蓄積された知は、死んでいる、ないしはそれをすべて生きることができない(生命の限界により)という意味で、また死んだ知が生きている行(人間)を圧倒するという意味で、本末転倒であるという。
蓄積された過去の知が、生きている個々の人間を貧弱な者と思わせる程、物神化して、生きている人間を疎外する。

陽明学は蓄積された知に対する、生きている行(人間)からの反逆である。生きている行(人間)が消化し得る範囲の知しか認めない、行による知の選択である。この意味での知と行の一致化である。

陽明学の知行合一説の登場を、このように歴史的に位置づけることができたとしても、先に述べた命題に対する畏敬の念は、どこに起因するか。

一言で言えぼ、自分の知的レベルは、自分の行動(ふるまい)がすべて立証する、行動(ふるまい)を通して試されるという、行に対する畏敬である。一見知に対して払われてよい畏敬の念が、行に払われるところに、陽明学の存在意義がある。実行の優位である。どんな立派な教えや理論も、実行されて始めて価値がある。実行されなければ、絵に描<か>いた餅に過ぎない。その真実性、真理性は、実行されて始めて立証される。

素晴しい知も実行されなければ全く意味がない。そう言い切るところに陽明学の知行合一論の意味がある。

しかし実行と言っても簡単ではない。実行を妨げるものがある。自私や私利と言うものである。また名というものである。また自他の別である。このように考えた王陽明は、人間の肉体(気質)ではなく、心(実心)に実行の拠り所を求めた。

本稿は、陽明学の本領を行の重視に見、次いで良知と致良知の方法を明らかにすることによって行の拠り所を心(実心)に見た陽明学(王陽明)の実学としての実行性と実心性を改めて明らかにするところに目的がある。

 

一、龍場の大悟

知から行への転換は、やはり彼37歳のときの謫配地貴州龍場での大悟による。年譜の記述だけでもそれがよくわかる。
「(武宗正徳)三年、戊辰(注、一五〇八年)。先生三十七歳貴陽に在り。春龍場に至る。先生始めて格物致知を悟る。龍場は貴州の西北、万山叢棘の中に在り。蛇*遮(き)魍魎、蠱毒瘴癘ともに居る。夷人*鵁(げき)舌語り難し。

*遮 (しんにゅうではなく)兀+(庶ではなく)虫。字音=き。まむしの意。
*鵁・・・(交ではなく)夬+鳥。字音=げき。もずの意。
語を通ずべき者はみな中土の亡命。旧<もと>より居なし。始めて之に教ふるに、土を範し、木を架し以て居るを。時に瑾の憾<うら>み未だ已まず。自ら得失栄辱を計るは皆能く超脱するも、惟<た>だ生死の一念のみ、尚ほ未だ化せざるを覚ゆ。乃ち石廓を為り、自ら誓ひて曰く、吾惟だ命を俟つのみと。日夜端居澄黙して、以て静一を求む。之を久しくして、胸中灑<しゃ>灑。

而るに従者皆病む。自ら薪を析<き>り水を取り、糜<かゆ>を作りて之を飼<やしな>ふ。
又それ抑鬱を懐くを恐るれば、則ち与<とも>に歌詩するも、又悦ばず。復た越の曲を調べ、雑へたるに詼笑を以てして、始めて能くその疾病夷狄患難たるを忘るるなり。因りて念ふ、聖人此を処するに、更に何の道あらんやと。忽ち中夜に格物致知の旨を大悟す。

寤寐中、人の之を語る者あるが若し。覚えず郷(=響)躍す。従者皆驚く。始めて知る、聖人の道、吾性自ら足る、向<さき>の理を事物に求むる者は誤りなりと。」陽明35歳の正月、戸部給事中の載銑らが宦官たちの横政を弾劾する上疏文で獄に投ぜられる事件が起きた。陽明は義憤に駆られて彼らを旧職に戻すことを求める上疏文を一兵部主事の身で上げたが、時の宦官権力者劉瑾の怒りを買い、貴州龍場の駅丞<えきじょう>に落されてしまう。右に引用した一文はその龍場駅での悲惨な生活を記したものである。

龍場は貴州の西北、万山叢棘の中にあった。周りに居るもの、あるものは、蛇、まむし、得体の知れぬもの、様々な毒やマラリヤなどの風土病。土地の者とは言葉も通じない。土地の者は居住というものを持っていない。湿気がひどいため、土を固めて床を高くし、木を架して家を作ることも教えなければならなかった。

命を脅すものはこれだけでなかった。劉瑾が彼の命をねらっていた。得失や栄辱はもうどうでもよかった。命さえあれば。しかしその命がねらわれている。彼はもう命も天にまかすしかないという窮地に追い込まれていた。石棺を作り、その中に端坐澄黙して、静一を求め続けると、しだいに胸中がサッパリとしてきたという。

しかしこんなことばかりをしていられない。従者がみな病気にかかってしまった。炊事の仕度はすべて自分でするしかない。従者にもかゆを作って食べさせねばならない。

もう一つ心配事があった。病気になった従者たちがみなふさぎ込んでしまつたのである。病いで死ぬか、土地の者に殺されるか、目に入るのは患難ばかり。ふさぎこんでいけば、気力は萎え、死が待つばかりである。陽明は必死になった。

何とかして彼らの気分を明るくしなければと。中国の詩歌を歌つても駄目だった。その土地に近い南方の越の曲の調べを口ずさんだ。そして合い問に面白い話を雑ぜた。従者たちを笑わせようと必死だった。遂に彼らが笑った。

従者たちに憂いを忘れさせるためには、楽しいこと、うれしいこと、面白いこと、おかしいことを、彼は必死になってそれを思い出し、考え出して、従者たちにぶつけたのだろう。見栄も外聞もなかった。ただただ面白いこと、おかしいこと、楽しいこと、それは何かと必死であった。ふさぎ込んでいる相手をいかに笑わせるか。

肝心の命さえねらわれている。この命はあとは天にゆだねるしかなかった。従者は皆病いに倒れた。彼がすべて面倒を見るしかなかった。

従者に不幸を忘れさせる。それをするのも彼しかいなかった。

すべては彼一人にかかっていた。これらの患難を聖人はどのように処したであろうか。しかし、そんなことを考える余地すら、余裕すらなかった。必死に対処するしかなかった。すべて彼の判断で、彼の全てをかけて対処した方法。それが、その方法は対象の側になくて、すべて彼の判断、心の命ずる所にあった。理は対象の側になくて彼の心の中にあった。否、彼の心が理そのものであった。そうあらざるをえなかった。理は物の側から心の側に移った。これが龍場での大悟の内容であった。

後世、龍場での体験をふり返って、良知の実践(致良知)であり、その発見であったと陽明は回想したと言うが、まさしくそうであったと思う。この良知は万能薬であり、彼そのものであった。後述するように「良知は造化の精霊」と規定されるが、龍場で患難をすべて切り抜けられたのは、彼の中の造化の精霊としての良知の発揮であった。

もう一つの比喩を挙げれば、樹の根と枝葉の関係である。伝習録の冒頭で孝とその方法としての温清奉養の儀節の関係が語られるが、孝心は根で、孝の技術は枝葉であると言う。龍場での様々な患難に対処した方法は枝葉であって、その方法を生みだした陽明の心が根であったのである。「心即理」という大悟は、まさに主体としての心、根としての心の発見であった。ものすごい威力をもつ良知の発見でもあった。良知は発揮されなければならない。知よりも行の優位性の発揮とその確認でもあった。
龍場の溶鉱炉の中から知行合一と心即理と致良知(この三つは一つのことであるが)の陽明学の魂が生まれたのである。

二、良知とは何か

龍場の体験は、頼れるものは自分しかないというものであった。書物はなく、あるのは彼が暗誦している経籍のみであった。従者は病に倒れた、衣食住に関する知識も、すべて彼自身に身についたものしかなかった。相談する友人もいなかった。頼れるものは自分しかなく、自分の中のある知や能でしかなかった。良知、良能でしかなかった。良知は良能であるので、以下良知で代表させる。
しかしこの良知は、37歳までの間に身につけたものであって、彼の全てであった。龍場の体験は、朱子学的な外のものが一切削ぎ落され、頼ろうにもそれは周りにいない、丸裸かにされた条件下でのそれであった。彼に残されたものは良知しかなかった。その意味で彼に良知を発見させた。彼の全てであるという良知、否、良知とは己れそのものであるという発見である。
彼が発見した良知というものを、三つに整理してみよう。

(1)良知と聖人

注目すべき良知の言説の筆頭は次のものである。
「良知良能は、愚夫愚婦と聖人同じ。但、惟だ聖人のみ能くその良知を致すも、愚夫愚
婦は致す能はず。此れ聖愚の由りて分る所なり。」(伝習録、巻中)
良知は誰も持っているが良知をよく発揮しているのは聖人だけであるという、とても注目すべき指摘である。
良知とは孟子の定義する通り、「学ばずしてよく知る」ものである。後天的な個々の知識ではない。

(2)良知の諸規定

良知の規定をいくつか確認しようか

〈未発之中〉
「未発の中は即ち良知なり。前後内外なく、渾然一体なる者なり。」(伝習録、巻中)
〈心之本体〉

「良知は心の本体。即ち前に謂ふ所の恒に照す者なり。心の本体は、起なく不起なし。

妄念の発すると雖も、良知は未だ嘗て在らずんばあらず。但人存するを知らざれば、則ち時ありて或ひは放つのみ。昏塞の極と雖も、良知は未だ嘗て明ならずんばあらず。但人察するを知らざれば、則ち時ありて或ひは蔽はるのみ。時ありて或ひは放たると雖も、その体は実に未だ嘗て在らずんばあらざるなり。之を存するのみ。時ありて或ひは蔽はると雖も、その体は実に未だ嘗て明らかならずんばあらざるなり。之を察するのみ。若し良知亦起る処ありと謂はば、則ちこれ時ありて在らざるなり。それ本体の謂にあらず。」

(同上)

良知は、心に妄念が発している時も、心が欲や何かで蔽われてしまっている時でも、必ずそこに存在し、また明るさを減じていないという。その人の心から良知は無くなることはない。心の本体だからという。
心の本体に関して、もう少し具体的な規定がある。

〈心之虚霊明覚〉〈天理之昭明霊覚処〉

「心は身の主なり。而して心の虚霊明覚は、即ち所謂未然の良知なり。」(同上)
「良知は天理の昭明霊覚の処。良知は即ちこれ天理。思はこれ良知の発用。」(同上)
〈嗷如明鏡〉
「それ良知の体は、なること明鏡の如し。略ゝ纖翳<せんえい>なし。妍*娃<けんし>の来る、物に隨ひて形を見はす。而るに明鏡曽て染を留むるなし。……明鏡の物に応ずる、妍は妍、*娃は*娃、一たび照して皆真。即ちこれその心を生じる処。妍は妍、*娃は*娃、一たび過ぎて留めず、即ちこれ住する所なし。」(同上)

「*娃」 正しくは女+蚩(みにくい)との組み合わせ。字音=し。みにくいの意。妍(けん)はうつくしいの意。

〈是非之心〉

「良知は只これ箇の是非の心。是非は只これ箇の好悪。只好悪して就<す>ぐに是非を尽し了る。只是非して就<す>ぐに万事万変を尽し了<おわ>る。」

〈大知〉

「良知の発見流行、光明円瑩、更に*累礙<しゅがい>遮隔する所なし。此れ之を大知と謂ふ所以。才<わず>かに執着意必あれば、その知は便ち小。」(同上),以上は良知の認識機能、判断力に関するものであるが、良知はものを生み出す力を持っているという。
「*累」 ただしくは(田ではなく)四の下に主の組合せ。「しゅ」と読み、魚を捕
らえる網の意味。

〈造化之精霊〉

「先生曰く、良知はこれ造化の精霊。這些<この>精霊は天を生み地を生み、鬼を成し帝を成す。皆此より出づ。真にこれ物と対なし。人若し復た他を得れば、完完全全、少しの虧<き>欠なし。自ら手の舞ひ足の踏むを覚<さと>らず。天地の間に更に何らの楽しみの代るべきあるを知らず。」(伝習録、巻下)これは良知が万能の力をもっていることの最高の規定である。天地の間の最高の楽しみをもたらすもの、それが良知であると言う。

〈天植霊根〉

「先生一日禹穴に出遊す。田*間の禾<か>を顧みて曰く、能く幾何<いくばく>の時にして、又此<かく>の如く長じ了<おわ>らんかと。范兆期旁に在りて曰く、此れ只これ根あるのみ。学問能く自ら根を植ふれば、亦長ずるなきを患へずと。先生曰く、人孰<た>れか根なからん。良知は即ち天植の霊根なり。自ら生生して息まず.但だ私累を着し了れば、この根を把りて*找<しょう>賊蔽塞して、発生するを得ざらしむのみと。」(同上)
良知は天植の霊根のように生々して息まないものという。心は「虚霊不昧、衆理具はり万事出づ」(巻上)。良知からあらゆる理や事柄が生み出されることを、天植の霊根と評したのである。

「*間」 正しくは門+(日ではなく)月。間と同じ意味。
「*找」 正しくは、爿+戈。しょう賊とは、本来の姿や性質を傷つけること。

〈真箇是霊丹一粒〉

「先生曰く、人若し這<こ>の良知の訣竅を知らば、他の多少の邪思枉念に随ふも、這裏<  ここ>にて一たび覚れば、都<みな>自ら消融す。真箇のこれ霊丹一粒、鉄を点にして金を
成す。(同)

良知を覚るとき邪思枉念がたちまち消滅するという指摘がとても印象的である。点鉄成金の点鉄は、鉄を点(=変)じてと解するのが無理のない解釈であるが、鉄をそのままの大きさで金に代えるとは虫がよすぎる。鉄を凝縮して金に成すと敢て解してみた。良知は霊丹の一粒のように、それを服するとそういう役割を果たすという、良知は心のなかの金のような存在であることをも示唆する。

〈真誠惻怛<そくだつ>〉

「良知は只これ一箇の天理、自然に明覚発見する処。只これ一箇の真誠惻怛、便ちこれ
他<そ>の本体。」(巻下)

良知は誠ともされたが、真誠惻怛が良知の本体だと言う指摘は、わかりやすさの点で注意を引く。この真誠惻怛の良知で、親に事へれば孝、君に事へれば忠、兄に従えば弟…となると言う。

〈楽、心之本体〉

最後に心の本体である良知を楽<らく>とした規定を揚げよう。

「楽は心の本体」(巻中、巻下)

以上『伝習録』から代表的な良知の規定を列挙してみたが、良知は心の本体である天理そのものとされながら、真誠惻怛の心というやさしさ、是非の心という判断力という身近な規定から造化の精霊という天地宇宙規模にまで広がる巨大な創造力を内包するまで至っている。そのスケールは「心外に理なし、心外に物(事)なし」という命題で既に示されていたのであるが、良知が心の本体であれば、良知も同じスケールをもつに至るわけである。「心外無理、心外無物(事)」という命題は、この心を認識能力、識別能力としたとき、一応は首肯できる。心を鏡としたときである。理や物(事)は心でそのように認定されて始めて理や物(事)と言えるということを前提とすれば、この命題は成立する。

しかし存在論として心=理、心=物(事)と見るときは、天地万物一体の仁、ないしは天地万物を有機体と見る生命一体観が必要となる。

私ははじめ良知に生きる力と判断能力(認識能力)の二つを見ようとしたが、王陽明は二つに分ける発想を一貫して拒否していたので、二つは一つと見なければならない。

人間にあってこの二つが一つであることは、良知と良能が実は一つである(知行合一)ことでわかる。良知は万人が具えているとされるのはこの力である。

しかし、良知が造化の精霊となり、宇宙的規模を擁したとき、庶民とは無縁となる。それは聖人のものとされるが、そのときの条件は一点の私意の介在も許されない。私意がいささかも介在しないとき、良知は完完全全、純粋な天理そのものとなる。聖人は天理そのものとなり、天そのものとなる。

生身の人間にとって不可能事に見えるこの境地を王陽明は龍場の絶体絶命の中で体験したのである。この体験は「致良知」の三字に集約され、彼の人生観(哲学と思想)の根本命題となった。

龍場の一悟を定式化した貴重な規定をここに示そう。

「禾壽不貳を問ふ。先生曰く、学問の功夫は、一切の声利嗜好を、倶に能く脱落させ、殆ど尽して、尚ほ一種の生死念頭あり。毫髪も掛<かい>帯すれば、便ち全体に於て未だ融釈せざる処あり。人は生死の念頭に於る、本より生身命根上より帯来す、故に去り易からず。若し此の処に於て見破<けんぱ>し得<え>、透過し得ば、此の心の全体は、方に是れ流行して礙るなく、方に是れ性を尽して命に至るの学なり。」(巻下、78条)

第一章で見たように宦官のボス劉瑾は、まだ失脚していなかった。彼が生死を天命に委ねるしかない所まで追い込まれていた上に、病床にある従者たちの世話から励ましまで我を忘れて献身せねばならなかった。

 

この条件下で自分のことを考える自私自利の念は、すっかり消尽し、従者たちを助け救いたいという真誠惻怛の念である良知が丸ごと発揮されたのであろう。言葉の通じない原住民を見る彼の目や態度は万物一体の仁そのものであったのであろう。良知がはたらき出し、通じあったのである。彼と従者、彼と原住民との間で。心の全体が流行無礙となったのは、彼の良知の状態であるが、心が通い合うさまは、相手の良知なしに成立しない。

王陽明自身が良知の力に一番驚いたのではないか。ある深夜歓喜の余り欣喜雀躍したのは、「存天理、滅人欲」の命題にも助けられて、私意、私欲、自私自利の念を亡くすことが天理の充全な発現、良知の実現であることを発見したからではなかったか。

彼は人欲を全否定したのではない。後に声色貨利の上でも良知を発揮してそこに天則を流行させることができるといっている(巻下、126条)。彼が否定したのは私の要素であった。自他を区別し、分ける自意識と、生き抜くことを含めて自分を優先させる態度であった。自分だけ生きようとするのではなく、共に生きる態度、これが良知が求める態度であることの発見であつた。

彼は「毫釐の差、千里の謬」という語を好んで用いる。朱王の差、儒仏の差、儒仙の差、いづれに関してもこの語が発せられたと解せられる。龍場での一悟(歓喜)は朱王の差であるが、それは、自私自利こそ、私意こそ心中の賊であることの発見であった(「与楊仕徳薛尚誠」)。

朱王の差の発見は、格物窮理が先(朱子学)ではなく、誠意こそ先(陽明学)であることの発見であった。私意は意を誠にする誠意の所で果されるし、そこから出発せねばならぬことの発見であったからである。理を心の外にあるものと見て、まず格物窮理に専念し、そのうちに脱然貫通して全体に達するという方法では、いつまでたっても全体に達しえず、また聖人の教を実践しえないという深い確信を、このとき持ったのであった。

三、良知の実践(致良知)の方法

良知が生きる力であり、重要な是非の判断力であるならば、それが発揮されることこそ肝要である。その方法は意外と簡単であるが、自分の生命をかける局面が一番難しい。その方法とは、私意、私欲、自私自利の排除だけというハッキリしたものであるが、それを実現するためのいくつかのアドバイスを『伝習録』の中から確認することができる。

(1)聖人となる志を立てること

そしてその志を切にすること
何事をなすにも志を立てることが大切であるが、良知の実践のために必要なことは、聖人となる志を立てることであると王陽明は言う。その趣旨は「弟<てい>に志を立つるを示すの説」という一文に示される。(1)これはまさしく名文である。その名文から何ヶ所かを引こう。

「それ学は志を立つるより先なるはなし。志の立たざるは、猶ほその根を種えずして徒らに培擁灌漑を事とするも、労苦成るなきがごとし。」

しからば学にあっての志とは何か。聖人となるという志がそれであるという。学の目的は自らを聖人にすることだと言うのである。しかし、これで志が立ったというのでは決してない。聖人の聖人たる根拠は何かをつかまなければならない。それはその心が天理に純にして、人欲がないことである。

「聖人の聖人たる所以は、これその心の天理に純にして人欲なきを以てすれば、則ち我の聖人たらんと欲するも、亦これその心の天理に純にして人欲なきに在るのみ。」聖人になるという志を立てるということは、聖人である「心が天理に純にして人欲がない」という条件を実現するという志を立てることによって明確になる。

その上で改めて志とは何かが、聖人となった孔子の「吾十有五にして学に志し、三十にして立つ」という文をもとに明らかにされる。三十にして立つの立つとは志が立つという意だと言う。「四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」の主語はみな志だと言う。四十にして志は惑はず。五十にして志は天命を知る。六十にして志は耳順ふ。七十にして心の欲する所に従って志は矩を踰へずと。その志とは聖人となる志である。聖人になる志が一生を貫く。

そこから志は改めて次のように規定される。

「それ志は、気の帥<すい>なり。人の命なり。木の根なり。水の源なり。
源濬<さら>はざれば則ち流息む。根植へざれば則ち木枯る。命続かざれば則ち人死す。
志立たざれば則ち気昏<こん>ず。

是<ここ>を以て君子の学は、時となく、処となく、志を立てるを以て事とせざるはなし。

目を正しくして之を視て、他見なし。耳を傾けて之を聴きて、他聞なし。猫の鼠を捕ふるが如く、鶏の卵を覆するが如く、精神心思、凝聚融結して、またその他あるを知らず。

然る後にこの志は常に立ちて、神気精明、義理昭著<ちょ>たり。」聖人となる志は、その人の命となり、命であるという。志はたえず立っていないと、その命は死んでしまう。絶えず志が立っているということは、聖人になるために耳目その他をすべてその志に集中する。そうなっていれば神気は常に精明で、義理(ただしさ)も常に昭著(あきらか)であると言う。

もし私欲が萌えたら、それは聖人となるという志が立たなくなった証拠として、それを責め、再び志を立てたらよい。
客気、怠心、忽心、懆心、妬心、忿心、貪心、傲心、吝心が生じたらどうすればよいのか。すべてその志を責めればよいのだ。

「凡そ一毫の私欲の萌せば、只この志立たざるを責む、即ち私欲は便<たちま>ち退く。
一毫の客気の動くを聴けば、只この志立たざるを責む、即ち客気便ち消除す。或ひは怠心生ず、この志を責むれば、即ち怠らず、忽心生ず、この志を責むれば、即ち忽ならず。
懆心生ず、この志を責むれば、,即ち懆ならず。妬心生ず、この志を責むれば、即ち妬な らず。忿心生ず、この志を責めむれば、即ち忿らず。貪心生ず、この志を責むれば、即ち貪らず。傲心生ず、この志を責むれば、即ち傲らず。吝心生ず、この志を責むれば、即ち吝<りん>ならず。

蓋し、一息も志を立て志を責むるの時に非ざるなく、一事も志を立て志を責むる地に非ざるなし。故に志を責むるの功、その人欲を去るに於てや、烈火の毛を燎<や>き、太陽一たび出でて、魍魎潜消する如きあり。」

志を立てること、聖人となる志を立てることが、その人の命であるように、志を立てること、立志の重要が以上のように懇切丁寧に説かれていることに私は驚き、また説得力を覚える。

その上で弟子が、しかし私意や私欲の除去が難しいと言うとき、王陽明はその志が直切でない(本物でない)と言い切る。志が切であることの具体例として陽明は好色の人を例に挙げる。「大抵吾人為学の緊要の大頭脳は、只これ立意。所謂困忘の病も只これ志真切を欠く。
今好色の人未だ嘗て困忘を病まざるは只これ一に真切のみ。」(巻中、「啓間道通書」)
聖人となる志が真切でないとき、逆説的であるが好色に思いを致すとよいかもしれない。
子夏の言ではあるが「賢を賢として色に易ふ」(学而篇)という方法がある。また「子曰く、吾未だ徳を好むこと色を好む如きの者を見ず」(子罕篇)と孔子も言っている。色を好むように聖人を慕ったらどうか軌色を好む心を活かして聖人に迫ったらどうか。色欲(性欲)が邪魔をして聖人になり切れないと嘆く者がいれば、陽明はこのように答えたかもしれない。
私意や私欲を失くして良知を発揮するために陽明は聖人になる志を立てよ、しかもそれを切に立てよと言う。

(2)学(学思)の場

二つ目のアドバイスは、一番難しい私意や私欲の克服にこそ学問を使うべきだという指摘である。換言すれば、心から私意を除去することにこそ学問思弁が必要なのだという学問観である。最も難しい所にこそ全力を集中せよ、学の力を発揮すべき所はまさにここであると。

陽明学には事上磨錬という原則がある。また実践を重んずるという鉄則もある。従って至善も事物の上で追求されるべきではないかという弟子の次のような問は自然である。しかし、陽明の答はまたしてもちがった。

「鄭朝朔問ひて曰く、至善は亦事物の上より求む者あるべしと。先生曰く、至善は只これこの心天理に純乎たるの極、便ちこれなり。更に事物の上に怎生<なにを>求めんや。
且<しばら>く試みに幾件<いくつか>を説<の>べて看よと。朝朔曰く、且く親に事ふるが如き、如何にして温清の節を為すや、如何にして奉養の宜を為すや、須らく箇の当に方とすべきを求むべき、これ至善。学問思弁の功ある所以なりと。先生曰く、只これ温清の節、奉養の宜の如きは、一日二日之を講じて尽すべし。甚<いずれ>の学問思弁を用ひ得べき。惟れ温清の時に於てや、只これこの心天理に純乎たるの極を要す。奉養の時や.只これこの心天理に純乎たるの極を要す。

此は則ち学問思弁の功あるに非ざれば、まさに毫釐千里の謬を免れざらんとす。聖人に在りと雖も、猶ほ精一の訓を加ふ所以なり。」至善を尽すは心を天理そのものにすることであって、技術的なこと、孝ならば温清の仕方、奉養のやり方などは、一日二日勉強すればわかること、そんなところに学問が必要なのではない。何事をなすにも心に私心がなく天理を発揮すること。大事なのは事柄の方ではなく、心の持ち方の所。もしこれを朱子学的に事柄や物の所に関心を向け、完璧さを求めるとすれば、限りなく事柄に引きづられ、心の涵養は疎<おろそ>かになってしまう。これが千里の謬りなのだと。

王陽明にあって学とは、心から絶えず私意を取り除き、心を天理そのものにすること、心の良知を絶えず鮮明にすること、そこに学問の役割と使命を見た。王陽明における実学とは心を実(誠=良知=天理)にすること、実心にあった。

今、学の役割、使命を私意を除去して天理や良知を鮮明にすることと言ったが、そこに二つの意味が含意されていることに注意しておこう。一つは天理や良知が太陽に喩えられていて、たとえ私意や私欲という雲で蔽われていても、青天の日のような明々白々な存在であるという意と、もう一つは天理や良知が誰の目にも明々白々な存在ではないという意があることである。理の原意は筋目であって、一般に明白なことであるが、次のような文と対比されるとき、探求さるべきものとなる。博文がなぜ約礼の功夫になるのかを説明する件りで、それが示される。

「先生曰く、礼学は即ちこれ理の字。理の発見して見るべき者之を文と謂ふ。文の隠微

にして見るべからざる者之を理と謂ふ。只これ一物なり。」(巻上・9条)
博文と約礼、文と礼、文と理とは一つの物であって二物ではないことが強調された上で、その理由として、理が発現して目で見えるようになったのが文、文の隠微にして目で見ることのできないのが理であるという。理は隠れていて見ることができない。それが見えるようになったのが文であると。

続けて言う。

「約礼とは只これこの心、純としてこれ一箇の天理たるを要す、この心純にしてこれ天理たるを要すは、須らく理の発見する処に就きて用功すべし。もし親に事ふる時に発見すれば、親に事ふる上に在りて、学この天理を存す。……。」親に事うる時に、その際どう事うるのが理(天理)であるかを明らかにし、それを実現せよと。君に事うる時も、富貴、貧賤に処する時も、患難、夷狄に処するときも、作止語黙に至っても、それを行うときに、その場でいかにすることが天理であるかを考え、それを発現せよと言う。心が純然たる天理になるとは、個々のケースに当って、その現場で正しい対処の仕方(理)が何であるかーそれは隠されているが明らかなものであるーを明らかにし、実践することを意味する。すでにマニュアル化されていれば、難しいことではないが、マニュアル化は王陽明の否定する所である(「扮戯子」(俳優)の演技を至善とは言えないと否定ー巻上、4条)。とすれば天理は一つ一つ事柄に当って心の中で物理'(天理)を明らかにすることであるから、易しいことではない。勿論天理は太陽のような明白なものであるから理は明白である。私意や私欲に深く蔽われているときに困難さが伴うのである。見透す困難さと、実践する困難さと。ここにこそ学問思弁(学思)が求められるのである。

かくして講求とは涵養であるというテーゼが納得できる。
「先生曰く、人は須らくこれ学を知るべし。講求も亦只これ涵養なり。講求せざれば、只これ涵養の志切ならずと。」(巻上、97条)

講求とは理の講求である。涵養とは心の涵養である。物理(事理)である衆理は心に具っているから、個々の事柄に直面して、物理を明らかにすることが、心の天理を明らかにすることであって、心の涵養になると言うのである。

講求とは涵養である。この確信に基づいて、王陽明は心が「乾坤万有の基」であり、「無尽蔵」であることを高らかに詠う。
「無声無莫独知時 此是乾坤万有基抛却自家無尽蔵 沿門持鉢效貧児」(詠良知四首示諸生より)
私は私意や私欲の除去は容易ではないという自己に引きつけた認識から、つい最も困難な所にこそ学が必要だという所に力点を置きすぎた…嫌いがあったかもしれない。

しかし良知が最高の楽しみをもたらすという造化の精霊観で指摘されていたこと、また「楽は心の本体」(巻中.巻下)という規定にあるように良知の本質が楽にあるとすると、良知の把握や発現は何も苦行が伴うというものではなく、学によってこそ最高の楽しみとしての良知が明らかになるという側面にこそ光を当てなければならないのかもしれない。(2)

イソップ物語の北風と太陽の喩えではないが、私意や私欲の克服(除去)の仕方は苦しみを通してよりは、楽しみを通してこそ楽<らく>に達成されるものであるかもしれないのでみる。貝原益軒の『楽訓』の冒頭に、真の楽しみというものは学ばないとわからないという指摘があるが、良知の実現にこそ学が必要という王陽明の指摘には、このような意味が込められていたと見ないと、龍場の歓喜の半分の意味をとりそこなうかもしれない。学(学思)の対象は良知にあるという指摘の楽しさの面を見逃してはならない。

(3)中心を喜悦せしめよ

-目一杯求めるなー
王陽明の教育論に、「徒多」を求めず、「精熟を貴ぶ」というのがある。二百字マスターできる者には百字だけ教えよというのである。
「常に精神力量をして余あらしめば、、則ち厭苦の患なく、自得の美あり。」(巻中、教約)
私は教師生活を40年余続けてきたが、私の教育法は、二百字マスターできる者には二百字教えよで終始やってきた。目一杯教え、目一杯求める教育法である。そうゆう目から見ると、半分だけ求めるという陽明の教育論はとても印象深い。
詰め込み教育とはまるで逆である。要求過多教育は次のように描かれる。
「鞭撻縄縛、拘囚に待するが如し。彼、学舍を視ること囹獄の如くして、入るを肯ぜず。」
(同、訓蒙大意示教読劉伯頌等)

ゆとり教育は学力低下を招いたとして、多くを教える方向に戻りつつある現下の日本である。
王陽明の教育論は精熟を貴び、自得を重んずる所に主眼がある。それが良知とどう関わるかと言えば、次の指摘を見る必要がある。

「規避掩覆して以てその嬉遊を遂げ、詐を設け詭を飾りて以てその頑鄙を肆にし、偸薄
庸劣、日々下流に趨る。これ蓋へし之を悪に駆りて、その善たるを求むるなり。何ぞ得
べけんや。」

自発性に基づかない強制の教育の下では、規則を巧みに破りながら糊塗する詐りや堕落が生まれる。良智は大きく傷つけられていく。

量を減らせばよいと言うのではない。精熟を貴ぶと言うのである。先に立意の所で見た精神心思の凝聚融結である。ここで想起されるのがシモーヌ・ヴェーユの注意力の訓練の指摘である。

「一人の人間存在の活動のなかにまがいものでない純粋な価値ー真、善、美ーを生じさせるのは、ただ一つの同じ行為である。それは、対象に注意をあますところなく注ぐことである。」「極度に張りつめた注意力は人間のなかで創造力の土台になる。そして極度に張りつめた注意力はかならず宗教的である。」「教えることの目的は、注意力を訓練してこのような行為ができるように導くこと以外であってはなるまい。教えることにはほかにもいろいろな利点があるが、それらはすべてとるに足らないものである。」「新しいことがらを理解するには及ばない。むしろ忍耐と努力と方法を尽し、全身全霊を傾けて、明白な真理の理解にたどりつくよう心がけなければならない。」

シモーヌ・ヴェーユ(一九〇九ー一九四三)の以上の指摘(3)は、良知の実践(実現)の三方法、「立意」「学思」「精熟」が一つのものであることを、わかりやすく説明してくれる。

結び

「私は陽明学徒ではない」という書き出しから始まった拙稿は、今漸くその稿を閉じようとしている。今の私は「私は陽明学徒でもありたい」という心境である。私は欲張りであるので、朱子学徒でもありたいし、老荘学徒でもありたい、気の哲学徒でもありたい、何よりも実心実学徒でありたい。仏教学徒でもありたいと書けないのは、仏教との出会いがまだないためである。

実心実学に関する私の探求の旅は、最近一つの集約を見た。(4)東アジアの近代以前の実心実学は修己治人型(儒教的実心実学)と天人型実心実学(「儒教+老荘」型実心実学)の二つがあること、そしてこの二つは後者の天人型に包摂されるという結論である。

こういう結論に到達しながらも、実心実学に最も近いと見られている陽明学の実心実学性についての専論が、私には欠けていた。陽明学の専門誌である本誌に、陽明学のイロハのような拙稿を書くこと自体、申し訳ないと思うが、本稿は陽明学の実学性(実心実学)の確認を目的としたものであった。結論は陽明学(王陽明)の学は良知の解明即実現にそのすべてが向けられており、良知を実心と言い換えてよければ、陽明学の実学の実は実心であり、実心が即ち実理そのものであるから、実心の学は今日定着している実学とイコールでもある、即ち陽明学の実学は実心実学であることが立証された。

可能性としては陽明学の実心は宇宙の実理をすべて理解し写し出すことができるが、陽明が「徒多」(徒らに多いこと)を求めず「精熟」を求めたところが、今日の実学とちがう。あくまでも実心と実心の実現(発揮)に全関心を注いだという所にその実学性があること、しかし実心の実現を生命とした所にその自得性、実現性、実際性があって、観念的なものでないことも自明である。知行合一である。しかし、今回の作業で明らかになったのは恐ろしいまでの実心性である。龍場の大悟はそれを示している。頼れるものは自分しかいなかった。自分のものになっていた知と行、良知と良能でしかなかった。二〇〇八年の春は龍場大悟から五〇〇年である。その折に陽明学の核心がつかめたことは、ありがたい。

はじめにで注目した知行合一のあの命題に戻ろう。知を行にさせる「真切篤実」、行を知にさせる「明覚精察」は、極度の注意力とその持続によって始めて可能になることも、明らかになった。

実心実学の実心性は、孔子の修己や老荘の天(真)でいいのであるが、それが本当に実践され体認されていないときが、陽明学の実心の出番である。知行合一(一であること)の要求である。                                   (了)

 

[注]
(1)三島復著『王陽明の哲学』(大岡山書店)179頁
(2)柴田篤”「顔子没而聖学亡」の意味するものー宋明思想史における顔回ー”(『日本中国学会報』第51集、一九九九年)参照。この論文は久米晋平氏のご教示による。
(3)『シモーヌ・ヴェーユ著作集』(春秋社刊)第三巻「重力と恩寵」、ちくま学芸文庫『重力と恩寵』、なお拙著『南の発見と自立』(花伝社)104頁参照。
(4)拙稿「実心実学と天人概念」(『二松』第42号、二〇〇七年三月)
(二松學舍大学大学院文学研究科教授)