Contents

儒学とは「人と共に生きる」ための学問である

「朱子学」と「陽明学」はともにいかにして儒学の教えを実行するかという精神論や行動論であり、「人のため」という基本姿勢は朱子学も陽明学も変わりない。

儒学の教えを広辞苑で引くと「その思想は、天命をもって根本とし、仁によって一貫された人道を道とし、道を実行するを徳とし、忠如をもって思想の道徳たる仁に到達しようとし、倫理上・政治上の教えを述べ、修己治人を目的とする。
すなわち、格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国平天下の道を詳らかにする。
朝鮮、安南などにも伝わる。我が国には、五世紀初、応神天皇の頃に伝来したといわれ、爾後神道及び仏教と調和して日本文化に大きな影響を及ぼした。」
となる。

当時の日本人の最も基本的な学問は「いかにして人のために生きるか」と言うことであった。

抜本塞源論とは

方谷や河井継之助を研究していると必ず耳にする学問、それが陽明学です。

激動の幕末の時代、彼らを突き動かした原動力になった思想であり、現代でも実践哲学といわれ多くの政治家などが日夜研究に励んでいます。

この陽明学、不思議なことに志した者は、一部を例外として、ほとんどが悲劇的な死を迎えています。

陽明学者の起こした代表的な事件では、1837年に大坂の与力「大塩平八郎」の起こした「大塩平八郎の乱」がよく知られています。この事件は天保の大飢饉(1836年)により米不足に陥った大坂、私腹を肥やす豪商達に業を煮やした大塩は門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる「施行札」を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。しかし、内部に離反者がでたため大塩は準備不足のまま決起し大坂町民ら300名と「救民」の旗を揚げて戦いましたがわずか半日で鎮圧、大塩は40日間潜伏の後自決しました。
山田方谷マニアックスでは岡田武彦先生の著書・「警世の明文 王陽明抜本塞源論」より方谷や継之助が自分たちの行動の基礎とした「陽明学」とその創始者「王陽明」について研究します。

まず王陽明の抜本塞源論とはなんぞや?

というところからひもといてゆくと、王陽明曰く

「人間の心には天地万物一体の仁、すなわち天地万物をわが身と同体であるとする仁徳があり、これに従えば、世の人々はわが親子兄弟と同じ骨肉の情愛で結ばれる。しかも、この仁徳は誰でも生まれつき持っているので、人々がみな同じくこの仁徳を持ち、わが才能力量に応じて働くようにすれば、人々は功利の念に一切汚染されないようになって、和気あいあいとした理想的な社会生活を送ることができるであろう。これは一見至難のように思われるかも知れないが、幸いなことに、人間はまた、生まれ一つきこれを知覚する良知を持っているから、それを大いに発揮すればよいのである」

言い換えると、「人間とは弱い者で、多くの人々は人間本来の心を失い功利の念に駆られ、私利私欲に走る、この功利の念は人々の心中に深く根を張っていて、これを除去することは容易ではないように思われている。しかし本来人間は誰でも生まれつき心の中に「善」と「悪」を判断する能力が備わっている、そして人間は、生まれたときから心と体(理)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。 その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致し、誰でも物事の本質を見ることができる。」
という考え方を「抜本塞源論」はベースにしています。

王陽明少年時代

 

王陽明と聞いてもほとんどの人は”誰?”と答えると思います。また少し歴史や幕末に興味のある人ならば『知行合一』の陽明学を解いた人だよね、といった感じにとどまるでしょう、そういう私も、山田方谷が行動の根本とした学問(思想)である。ということは知っていても「陽明学」とはどんな学問で「王陽明」がどんな人物であったのか、ということは全くしりませんでした。

王陽明は1472年(明の憲宗の成化八年)中国の浙江省の余姚(よよう)に生まれ、1528年、57歳の時、江西省の南安で客死しました。宋代の朱子と並び称される明代の大儒であり、詩人文人でありながら中国各地で賊を討伐して大功を建てた武人でもありました。
人は王陽明を「左手に書物を執り、右手に剣を撫した、儒者であり豪傑であった」と伝えています。

陽明は現役時代から中国大陸を駆けめぐり門人を教化していきます。
陽明の唱える陽明学は、「理知的で他律的な道徳」を説いた朱子とは異なり、情愛に溢れた自律的な道徳を説いていったといわれます。そのため陽明の講義を聞いた者は「血湧き肉躍り、歓喜の余り手の舞い足の踏むところを知らなかった」と伝えられています。

子供の時から神童といわれていた陽明は、10代の前半から中国北部が他国より侵略されたりすることを憂い、自国の未来のため働きたいと切望していました。16歳で朱子学に目覚め、朱子のいう「一木一草にも理がある」という教えを実践するために、たまたま庭に生えていた竹を見て「草木にも理があるならば、この竹にも理があるはず、それを見極めるのだ。」と一週間不眠不休で竹を見続けました。

朱子は、「聖賢になるには、万物の理をいちいち究明し、この努力を積み重ねていくと、万理は一つに貫かれることがわかるようになる、この境地に達して始めて聖人や賢人になれるのである」と朱子学の中で説いています、しかし、若き陽明はこの一週間の竹の観察によって体調を崩し病に伏す身となってしまいます。その上、竹の理の究明に失敗した自分はとても聖人や賢人になれる資格はないと自暴自棄になり、儒教の学習を放棄してしまいました。

陽明の希望と挫折

陽明は17才で結婚します、体が弱かったため「聖人」になることを諦めた陽明は、当初道士について、道家思想とも言うべき「養生の説」に傾倒します。

(養生の説とは、「無為を以って精神を養い、無事を以って民を安んずる」という考え方。つまり「君主が自然体に生き、精神を養って特に作為を行わない政治を行う」ということ)

しかしその翌年、婁一斎(ろういっさい)という儒家に出会い「聖人は、学べば必ずなれる」と教えられると、再び儒教を学び官吏(国家の役人)になることを志すようになります。

その後、22才と25才の時、進士(中国で、科挙の科目の一。また、その合格者。宋以後では、殿試に合格した者の特称)の試験に挑戦します。しかし残念ながら2度とも落第、失意の中、再び辞章の学や兵法についても学ぶようになります。27才になったとき、またしても朱子の教えに基づき、物の「理=本質」を追求しようと試みたが失敗、陽明の中ではどうしても「心」と「理」は融合せず、失意の中再び持病が発病、またもや聖人になる夢を諦め、道士の養生の説を慕うようにります。

捜し物を諦めたとき、ふっと出てくるのと同じように、肩の力が抜けたのか、翌年、28才のときに、遂に念願の進士の試験に合格、晴れて出仕します。
念願の試験を突破した陽明は「聖人」として天下のために身を尽くそうと希望に燃えていました。そんな矢先、またしてもつらい運命が陽明に襲いかかります。
もともと病弱だった事に加え、今度は肺病に冒され、休職して帰郷するという事態が起ったのです。

深い失意におそわれた陽明は、世を捨て俗世間の諸念を一切立絶とうと思い立ち陽明洞というところに閉じこもり、養生の道を求めました。俗世を捨て、すべての雑念を捨てようと努力する陽明ですが、どうしても肉親への想いだけは捨てることができません。

その時、陽明は忽然と悟ります。

「肉親への想いまでも捨てろという道教や仏教の教えは間違っている。」
この悟りを得た陽明は道教・仏教をすて、再び儒教を志すようになり「聖人」として世のため人のために働くことを誓いました。

1506年、皇帝に武宗が即位し年号が正徳と改められました。武宗は中国の歴史の中でも最も無能な皇帝といわれている人物で、武宗は劉瑛(りゅうきん)ら八虎といわれる一部の宦官(部下)を寵愛し政治を乱し、これをいさめる役人を次々と投獄します。
これを憂えた陽明は劉瑛を弾劾し、とらわれた役人を救う上奏文を皇帝に提出、しかし(当然といえば、当然だが)反対にとらわれの身となり、漢民族の文化の及んでいない遠方の土地「竜場」に流されてしまいました。

王陽明という人物は客観的に見ると単純で情熱的な性格といった印象で、彼の20代は、ひたすら「聖人」となり国と民を救うことに人生を費やしてきた燃える若者でした。試行錯誤と挫折を繰り返し、理想と現実のギャップに悩む熱血青年にとって、大きな転機となったのが「竜場(りゅうじょう)」への流罪だったのです。

知行合一を悟る

 

陽明が竜場に着いたのは1508年・春、37歳の時、当時この地方は中国中央部とは異なり、人々は洞窟に住んでいました。陽明も周りと同様洞窟で暮らすこととなり、元々体の弱い陽明はここで生死をさまよう想いをします。このため陽明は洞窟でひたすら静坐を続け「物の理」について考え続けました。

何日も静坐を続ける陽明の脳裏に、或る夜忽然と光が差し込みます。

「物の理は心の外にあるのではない! 「理」は我が心の中にあるのだ!」と
それまでの陽明は、あくまで朱子学の考えに沿った思考をとっていましたが、この時、遂に朱子学とたもとを分かつ「陽明学」が産声を上げたのでした。
翌年、陽明38歳のときには陽明学の基本的な思想である「知行合一説」の論を唱え陽明学は徐々その形を整えはじめます。

陽明学の思想の柱となる「知行合一説」とは、乱暴に言うと「心の中で自分がするべきことを知っているならば、それは自ずと行動に表れる。」と言うことで徹底した経験主義者だった陽明だからこそ行き着いた神髄といえます。

年末、陽明は罪を許され、江西省の県知事に任命されます。このころになると、陽明は数名の門人を抱えて陽明学を説き始めていました。初期の陽明学では自分が静坐したことから悟りを得た経験により、諸生に「静坐悟入」をといていました。この「静坐悟入」儒学でいう「理=本質」を体認するためのものですが、一見禅宗の「坐禅入定」とスタイルが非常によく似ており、門人の間で「静坐悟入」を間違って認識し、仏教の静寂の道に陥るよう者が続出したため、この方法は早々に廃しその後は己の欲望を無くするための実践的修行を中心としました。

1516年、陽明45才のとき、陽明は江西省の南籟地方、福建省の汀州、澄押や広東省の治安維持を命ぜられ、約一年半の間にこれらの地方の険難なところに要塞を作って、賊の討伐に当たります。この地方には過去にも多くの武将が賊討伐を命ぜられ遠征していましたが、ことごとく敗退、いまだ平定されていない危険な土地として知られた場所でした。

この地方の賊の平定に当たった陽明は、頭からいくさを仕掛けるのではなく、まず賊に対し仁義王道を説き、彼らを説得することから取りかかりました。その際、賊に当てた文章は「一読すれば、感涙にむせばざるを得ないような、情愛の溢れたもの」であったといわれ、それを読んだ賊の頭の中には降伏して陽明に忠誠を誓った者もいたといいます。

「言ってきかなければしょうがない」説得に応じない賊に対しては兵を持って討伐に当たります。このころの陽明は既にあらゆる兵法に通じており、向かうところ敵なしの圧倒的な強さをみせていました。しかし陽明の賊討伐作戦でもっとも注目すべき点は、戦よりもむしろ戦後処理にあったといいます。戦いが終わると陽明は、再び治安が乱されないようにと、良民の生活の安定を図り、その教化に力を尽くすといった政策を実施しました。

また、賊の討伐中であっても自分の門人に対してもぬかりなく強化に努めました。
陽明が賊の討伐中に門人の醇尚謙(せつしょうけん)に与えた手紙の中でこう語っています。
「今日すでに竜南(江西省)迄やってきた。明日は賊の根拠地を攻撃します。友軍は既に賊を包囲しており討伐は時間の問題でしょう。醇君、山中の賊を破るのは易い、しかし心中の賊を破るのは難しいものです。もしあなたが心の中に巣くう仇を一掃することができ、晴れ晴れとした気分を得ることができるようになれば、それこそが偉大な業績となるのです。」
王陽明の戦いとはまさに自分自身との戦いでした。いかにして私利私欲を捨て人のため生きることができるのか?陽明はひたすらそれを追い求めました。そして49の時一つのゴールにたどり着きます。

 

致良知を悟る

 

1520年、王陽明49才の時、ついに「良知=良心」が学問の大本領であることを悟り「致良知説」を唱えるに至りました。38才で知行合一論にたどり着いた陽明でしたが、陽明学のもう一つの柱「致良知」にたどり着くにはさらに10年という月日を必要としたのです

ではこの「致良知」とは?

陽明は「良知」のことを「古来の聖人たちが相伝えた血脈とし、かつ何人にも生まれつき備わっている普遍的なものである」と言いいます、さらに「この良知に従えば、物の真偽・是非・善悪は即座に判別せられ、私利私欲の一念も、焼けた炉の中に雪を投じたときのように一瞬に解消し、善を好み悪を憎んで、すべて天理に基づく行をすることができるようになる」と門人達に語りました。

門人の郷東郭(すうとうかく)への手紙なのかでは「・・・今、多くの苦難を嘗めてから、物事の判断には良知だけで十分であることを知りました。たとえてみますと、良知は、舟の舵のようなもので、舵があると、浅瀬でも舟を自由に操れるし、逆巻く怒濤の中でも、舵を手にしておれば、舟が沈没して溺れるような心配はないのであります。」と書いています。

さらに陽明は「人は誰でも生まれつき聖人と同じ良知を備えている」と唱えました。

当時、直接陽明の演説に接した者は感奮興起、聖人の学に志す者は強い自信を得たといいます。
「良知」こそが陽明が朱子学について抱いていた疑問を解決する決定的な物でした。

「朱子学のように物の理をそのものの中に求めると、心で心を求めるようになって混乱に陥る、むしろ心外の物についてこれを求めた方が確かである。しかも物の理は無限にあるから、朱子のようなやり方では、一生涯かかっても、理は究めきれない」

全く新しい価値観はどの世界、どの時代においても最初は異端視されます、「陽明学」も同様、従来の朱子学者から激しい批判を浴びました。当初は陽明も朱子学から一歩引いた姿勢をとり、直接朱子学と対決することはさけていました、しかし「致良知説」を唱え始めた時期からは堂々と朱子学を批判するようなります。当時の中国「明代」において陽明学の直感的で情感的な説は大いに受け入れられ大流行しました。
しかし、この「良知」こそ陽明学の功罪の最たる物であるといえます。「良知」について聞いた物は、「人は誰でも生まれつき聖人と同じ良知を備えている」という言葉に感化され、「良知」とは至極易簡なものと思い切実な修行もせずに安易に「良知」と唱える物が出てきました。歴史を見ても良知の域に達していないものが「勘違い」によって英雄を気取り、かえって良民を戦に巻き込んだ例はいくらでも見つかります。
陽明の考える「良知」を発揮するためには切実な修行から悟る必要があり、安易な思いこみをさけるため、陽明は「良知」の前に「到る」という一文字を加え「到良知」とし、修行の重要性を示しました。

1521年、50才のとき、陽明は震濠の乱の平定の功によって、新建伯に封ぜられた。その後は門人達の教化につとめる日々を過ごしていました。ところが1527年、56才のときまたもや広西省の賊の討伐を命ぜられます。陽明の体は既にボロボロで「その任務にはとても堪えられない」と辞退するものの許されず、その年の9月、やむなく遠征に出発した、ここでもいつもと同じく説得から入り、それでも聞かぬ賊に対しては実力で討伐、翌年7月には任務を完了しました。

しかし、遠征の地の激務は陽明の体を確実にむしばんでいきました。病気療養のため、朝廷に帰郷を許可してもらうよう奏請するも8月には病状はますます悪化、しかたなく朝廷の許可がないまま帰郷の途に着きました。
11月29日、故郷への帰郷中、南安の青竜鋪の船上で門人の周積に、「此の心光明、亦復(また)何をか言わん」という言葉を残し、永遠の眠りについたと伝えられています。