方谷年表

年号 西暦 年齢 方谷年表 参考
文化2年 1805 1歳 山田方谷,現在の中井町西方に誕生。名は球、通称安五郎、父は五郎吉、母は梶。
4年 1807 3歳 このころより母から毎日字を習うようになる。
5年 1808 4歳 額字を作州木山神社に奉納するなど才能を発揮する。
6年 1809 5歳 親元を離れ20キロ離れた新見藩の安養寺に預けられ、丸川松隠の塾で学ぶ。
7年 1810 6歳 方谷の評判を聞いた新見藩の藩主に招かれ、面前で字を書く。
9年 1812 8歳 妹、美知、没す
10年 1813 9歳 丸川塾にて神童といわれるようになる、なぜ学問をするのかと客に聞かれ「治国平天下」と答える。 林富太郎生まれる
11年 1814 10歳 弟の平人生まれる。
12年 1815 11歳 初めて方谷自作の漢詩「得家書」をつくる。
文政元年 1818 14歳 8月27日、母、梶が病で没す

このため父は方谷の学問を断念させ家業を継がせようとするが方谷の師丸川松隠に説得される。
漢詩「述懐」(この詩はこの後明治・大正時代の教科書に載る)をつくる。
父五郎吉、近と再婚する。

2年 1819 15歳 父五郎吉が病気になり、訓戒十数条を方谷に残す。

7月4日、父五郎吉没す

頼山陽、松山に遊学
3年 1820 16歳 西方村の生家に帰り、叔父辰蔵にかわり家業の菜種油の製造販売を継ぐ。
4年 1821 17歳 新見藩士の女(若原 進)をめとる。 進昌一郎生まれる
5年 1822 18歳 家業と学問に励む。
6年 1823 19歳 松平勝静、奥羽白河城に生まれる。

2月、幕府が異国船打払令を出す
8年 1825 21歳 方谷の学問への熱心さが松山藩主、板倉勝職の耳に入り、学問に励むようにとの沙汰書を賜り、二人養持(一日玄米一升)の禄をいただき学問所への出入りも許可される。
9年 1826 22歳 長女 瑳奇がうまれる。
10年 1827 23歳 妻と生まれたばかりの娘を残し、家業を義母や弟に託して京都で学ぶ。年末に帰国する。
12年 1829 25歳 三月、再び京都で学ぶ。

12月23日、藩主勝職より名字帯刀を許される。5日後28日には8人扶持を給せられ中小姓格に上がり、藩校有終館会頭(教授)に命じられる。

松平定信没す
天保元年 1830 26歳 3月、師、丸川松隠に従いお伊勢参り、4月に帰国。
6月、家を城下の本丁に賜る。
藩の平穏と五穀豊穣を祈願する旗行列が誕生。
伊勢おかげ参りが大流行
2年 1831 27歳 2月10日、郷里の西方に帰った留守中、藩主から賜った本丁の家が火事で焼失、有終館も類焼、藩から松連寺の一室での謹慎を命じられる。3月10日、謹慎が許される。
7月、2年間の許しを得て、3回目の京都遊学をする。

遊学中、陽明学と出会う。

8月、丸川松隠没す。
孝明天皇生まれる
4年 1833 29歳 12月、3年間江戸で学ぶことが許され、京都から江戸に入る。 江戸域を知った弟平人から家業の困窮を訴える手紙が来る。
5年 1834 30歳 1月、江戸で斉藤一斉塾に入門。陽明学の神髄は「誠意」であるとの確信を持つ。佐久間象山と出会う。 天保の大飢饉続く
近藤勇生まれる
7年 1836 32歳 正月に大小姓格に上がる。
5月、長女瑳奇没す。
9月、一斉塾を退き帰国する。その時、一斉に「尽己」の書をいただく。
10月、有終館学頭に命じられ、藩主から御前丁に家を賜る。
福沢諭吉
坂本竜馬
土方蔵三
生まれる。
8年 1837 33歳 大塩平八郎の乱
徳川慶喜生まれる。
9年 1838 34歳 家塾、「牛麓舎」をひらく。
恩師、寺島白鹿の子、義一らが牛麓舎一期生として入門
進昌一郎・大石隼雄・林富太郎・寺島義一ら牛麓舎の第一期生として入門
10年 1839 35歳 正月、弟の平人に長男耕蔵が誕生、春、有終館が消失するが、仮の藩校の再建がなる。 高杉晋作生まれる。
11年 1840 36歳 アヘン戦争勃発
渋沢栄一
久坂玄瑞生まれる
12年 1841 天保の改革
13年 1842 38歳 勝静、備中松山藩勝職の婿養子となる。
14年 1843 39歳 三島中州矢吹久次郎「牛麓舎」に入門 三島中洲・矢吹久次郎が方谷に従学
弘化元年 1844 40歳 勝静、備中松山に世子として来る。
方谷、板倉勝静に講義をする。
4年 1847 43歳 4月、津山藩に行き新しい洋式砲術を天野直人に学ぶ。
庭瀬藩の渡辺信義に火砲の術を学ぶ。
妻、進と離婚。冬京都から帰ってきた平人が医者を開業。
嘉永2年 1849 45歳 4月、再び津山藩で砲術を学ぶ。
藩主板倉勝職が引退し勝静が藩主となる。
8月、元藩主 板倉勝職没する。
11月27日、弟、平人病で没す。
12月、勝静に元締め役兼吟味役を命じられる。
3年 1850 46歳 この年から藩政改革を断行する。
財政状況を調査すると公称五万石の松山藩の実高は二万石に足りないこと、そして藩の借金が10万両に登ることが判明。

帰国した勝静が藩政改革の大号令を出す。
大阪に出向いて銀主と交渉し、藩の借金の返済期間をのばしてもらう。
義母、近没す。

4年 1851 47歳 6月、板倉勝静、江戸幕府の奏者番に命じられる。
5年 1852 48 郡奉行の職もかねる。江戸産物方を設置する。買い上げていた旧藩札を高梁川河川敷にて焼き捨てる。
6年 1853 49歳 干害のため藩の貯倉をあけて米を緊急無料配布し餓死者を防ぐ。 ペリー浦賀に来航
安政元年 1854 50歳 藩の総理大臣(参政)に就任、元締役と兼務する。
娘、小雪生まれる。
小雪の母(荒木主計の姉)と離婚
2年 1855 51歳 玉島の海上で松山水軍の砲撃練習をする。
3年 1856 52歳 再婚し、みどりを妻とする。年寄役助勤となる。
4年 1857 53歳 元締役をやめる。

勝静、幕府寺社奉行を兼務することを命じられる。

5年 1858 54歳 日米修好通商条約に調印。
9月、安政の大獄が起きる。
6年 1859 55歳 2月、板倉勝静、安政の大獄の件で大老井伊直弼に意見したことが発端となり奏番者件寺社奉行を免職。

4月、希望して西方村長瀬の一軒家に移住し土着政策を自ら実践する。

長岡藩士河合継之助来遊

万延元年 1860 56歳 10月、方谷、再び元締役をかねる。
亡き弟、平人の息子、耕蔵を養子にして後継ぎとする。
桜田門外の変が起きる。
文久元年 1861 57歳 2月、江戸で勝静の政治顧問となる。
勝静、井伊直弼に意見したことが認められ再び奏番者兼寺社奉行に返り咲く。

4月、病気のため帰国。
5月、元締役をやめる。

2年 1862 58歳 板倉勝静、江戸幕府 老中に任命される。

方谷、再び江戸にて勝静の顧問となる。
11月、将軍家茂にあい勝静を通して攘夷を進言する。
顧問の辞職を許され、準年寄役となる。

3年 1863 59歳 2月、江戸より帰国する。
4月、京都にて勝静の顧問となる。
(このころ強く勝静に老中辞職を進言するが実現せず。)
6月、京都より帰国する。意見の異なる勝静に抗議して登城を拒み、長瀬の自宅にこもる。
松山藩士 谷兄弟が新撰組に入隊
元治元年 1864 60歳 6月、勝静、老中職を免職
11月、方谷、長州征伐出兵をした後の留守部隊の指揮を任命される。
慶応元年 1865 61歳 正月、勝静が征伐にかって帰国したので、方谷は留守部隊の指揮を解かれる。

10月、勝静、再び幕府老中に任命され幕府とともに倒れる覚悟を将軍に告げる。

2年 1866 62歳 7月、将軍徳川家茂が没し、勝静窮地に立つ。
12月、徳川慶喜、将軍職に就く。
薩摩藩と長州藩が連合する
慶応3年 1867 63歳 6月、方谷、藩命に従い京に上り、今後の方針について勝静と話し合うが意見が合わず。
8月、勝静と別れて帰国し、母の墓を作り直し碑文を読む。
12月、愛娘、小雪を矢吹久次郎の息子、発三郎に嫁がせる。
10月、大政奉還
12月。王政復古の大号令下る。
明治元年 1868 64歳 1月15日、美袋本陣において備前岡山藩
正月18日、備中松山城無血開城

戊辰戦争が起こり、勝静、徳川慶喜とともに大阪城から脱出、江戸へと帰る。
1月19日、勝静世子勝全に家督をゆずる。
4月、勝静親子の流転始まる。
江戸幕府がたおれ、江戸が東京にあらためられた
2年 1869 65歳 長瀬の塾舎を増築して弟子教育につとめる。
5月、勝静自首。
6月、藩籍奉還。
9月、松山藩は勝弼を藩主とし二万石として再興がなる。
10月、改称の命により藩命が高梁藩となり勝弼が高梁藩知事となる。
3年 1870 66歳 10月、刑部に住居を移転。弟子教育につとめる。
以後、この塾には全国から数百名の若手が勉強に集まる。
4年 1871 67歳 3月、再興された閑谷学校で、陽明学の講義をする。 廃藩置県
5年 1872 68歳 勝静、特別に禁固を解かれる。
6年 1873 69歳 松山城 廃城 地租改正
8年 1875 71歳 4月、高梁にて勝静と再会する。勝静の長瀬での宿泊は3日にわたる。
10月、矢吹久次郎没す。
9年 1876 72歳 4月、母の実家西谷家の再興がかなう。
12月、病気が重くなる。
10年 1877 73歳 6月26日、小阪部にて没す。

参考文献:郷土の偉人 山田方谷 方谷を学ぶ会

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