山田方谷と郷土の人々

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方谷先生が晩年復興に尽力された閑谷学校のある備前市の加子浦歴史文化館において、「第31回企画展 山田方谷と郷土の人々」展が開催されています。
企画展では方谷先生の書や、幕末期の郷学総括中司通明宛の書簡などを展示するほか方谷先生着用の袴や愛用の魚はいなども展示しています。
◆期間
12月17日(月)まで
◆休刊日火曜日と祝日の翌日
◆お問い合わせ加子浦歴史文化館


明治維新の変革によって閑谷学校の学田であった田地は小作人に与えられ、学林は政府の没収するところとなり、明治四年の廃藩置県の年には閑谷学校自体が廃校となった。しかし明治6年2月、旧岡山藩士らの熱意によって山田方谷を閑谷へ招聰し、学校を閑谷精舎の名称で再興する快挙が実現した。
同年9月岡山県権令の新庄厚信は、閑谷学校の地 所と建物との払い下げをのぞむ旧岡山藩士と戸長らの申請をうけ、大蔵省の大隈重信にその許可を求めた。この申請書には地所と建物合わせて134円20銭の代価取調書が添付されていたが、大隈は許可せず入札を命じた。
そのため翌 明治7年7月、中司通明を代表とする和気郡の戸長らは、入札によって個人の所有になっては学校を保護する方法が無くなるとして、払い下げが実現すれば学校を公有の小学校にする取り決めをしたうえで、願書に学校の見取絵図を添え岡山県参事石部誠中に払い下げを申し出た。
石部は内務卿にこれを申請し、その結果学校地のうち1反6畝20歩と建 物11棟は無代払い下げ、残りの1町9段9畝10歩は、1反につき金1円で払い下げが実現した。こうして閑谷学校は、閑谷新田村・木谷村・伊里中村・東片上村・難田村・井田村・友延村・日生村・大多府・寒河村・福浦村・福浦新田・三石村・八木山村・蕃山村・麻宇那村を範囲とする和気郡第18区の共有となったのである。
日生村の中司通明は藩政時代には名主、大庄屋、大里正を歴任したうえに郷学総括、農兵隊長、一郡議頭(郡議会議長)、物産取締、勧農掛等の重責を背負い、明治の世になると上述の第18区と第17区(新庄・福田・坂根・弓削・勢力・千躰・香登西・香登本・大内・伊部村西分・伊部村東分・浦伊部・久々井・西片上)をたばねる第六会議所の副区長(実質区長)に就任した。幕末から明治初期にかけて豊かな財力に恵まれた日生村は、近隣の農村の村々をしのぐ勢力があったようである。
熊沢蕃山の隠棲した蕃山村と目生村とは隣接しており、蕃山の影響も深く、時代をさかのぽらせれぱ、明智光秀に滅ぼされて日生村へ来住し代々医者を生業とした須知氏は、二世の代に岡山藩校へ第一期生として入学した。初代の須知氏は夜の山中を道に迷った蕃山を助け、直々に須知家へ礼を述べにきた蕃山から、謝礼として島々の病人を往診するための船をもらっている。これをきっかけとして蕃山村の熊沢氏(蕃山組の人最後まで蕃山に忠誠を尽くした)に見込まれた須知氏二世と、光政の子で蕃山の養子になった丹波守の家臣の娘とは婚姻関係を結ぴ、蕃山 .が蕃山村を去ったあと主のいない領地に起きるさまざまな問題を、解決すべく援助しなければならない立場にあった。
幕末になっても日生村の人々の蕃山を尊敬する気持ちは篤く、日生村の最後の名主といわれる中司通明は、歴史と日本文化に対する非常に深い鑑識をもち、蕃山に関しても豊富な資料を収集しており、研究家や愛好家に惜しげもなく彼の知識を開陳し、与えた。蕃山の没した古河市の鮭延寺で明治四十四年に執行された蕃山先生贈位奉告祭に出品された熊沢家累代の兜は、書画骨董市場にネットワークを持つ中司が発見し、蕃山の係累の熊沢友雄に譲ったものである。中司は「小蕃山」といわれる山田方谷との出会いによって、天が自己に課した使命を自覚した。その使命とは、儒教の徳の力に士民をあやからせ、その効によってより良く国を治めるために学校を作り、教育を盛んにしなければならないという、池田光政と蕃山の治国の思想の結実である閑谷学校を存続し、二人の偉大な為政者の遺徳を後世に伝えることであった。
一年のうちの春秋だけ閑谷へやってくる方谷を、中司は蕃山に対するように尊敬した。晩年の方谷もまた蕃山を誰よりも尊敬し、中江藤樹と蕃山の遺した陽明学の書籍への関心と、文明開化の世にあって陽明学を廃らせてはならない教育者としての使命感から閑谷へきたのであった。方谷の来閑中、中司は誠意を尽くして仕えた。ある日蕃山を慕って蕃山村の蕃山の居宅跡へやってきた方谷は、蕃山の生涯と自己の境涯とを重ね合わせ、万感胸にせまりきて容易に立ち去ることができなかった。その様子を見た門人の岡本魏や谷川達海らはそこへ方谷のために草盧をつくろうと考えた。旧岡山藩士らのその考えに助勢する意味で、中司は彼が自覚した使命を着々と進めていく中で、まず手始めに彼自身が統括する和気郡のr衆」の力によって方谷のための盧を彼はつくった。ちょうど上記の閑谷学校を和気郡第1 8区のものにしたころである。
方谷はこの庵を非常に愛し、督学の合間をみはからっては閑谷から老僕をっれてやってきて、二泊しては帰って行った。 ここには明治8年2月、備中高梁藩のかつての侍講鎌田玄渓もきて方谷と詩を交し合い、「留宿帰るを忘るるが如し」と伝えられている。鎌田は明治になってからは再び世に出ようとはせず、この年の春方谷の請いにより閑谷学校の教授として来閑した。しかし鎌田の意に副わなかったのか同年秋、一世の碩学鎌田は閑谷を去る。鎌田のつぎに招聰されたのが叔父の阪谷郎盧(さかたにろうろ)の跡を継ぎ、井原の興譲館2代目の校長に就任した坂国警軒であった。一度は閑谷行を辞した坂田だったが、1年間の約束で同年冬、興譲館の生徒を引き連れて来閑した。
坂田も蕃山村の盧へ方 谷とともに泊したことがあり、暁方に目覚めた坂田は、有明の月がのこる薄明かりのなかで、方谷が瞑想にふけって欄によりかかっているのを見た。方谷はあたかも蕃山の魂と交わっているようで、ため息ともすすり泣きともつかない声をあげた。老齢の方谷はこのころ既に病をかかえており、明治9年7月を最後に閑谷へ来ることはなかった。そして同年冬に約束の期間が満了し、坂田も学校を去ったが、坂田にとって方谷との別れは、中司通明のために井田碑の稿本を老体に鞭打って揮毫する方谷の気迫を、隣室に控えて感じ取ったその目が最後になった(『警軒文砂』より)。中司はこれらの鐸々たる漢学者たちと親密に交流できる深い教養と、和気郡の「衆」からの人望を一身に背負った人物であった。
井田は寛文元年に池田光政が和気郡友延村の海をトし、新田をつくるのに適した場所と判断し、防潮提を築いて同1′ 0年津田永忠に地割を命じ、翌11年古法によりロ舎をつくって公私の田に分けた。上井田と下井田で成り、下井田は元禄初年にでき、宝永7年に閑谷学校の学田となった。光政の恩恵と偉大さを後世に伝えるために井田の保存の必要性を感じた中司は、井田に建碑しようと考え、撰文を方谷に、蒙額を西薇山に依頼したのだった。戸長ら数名と中司は閑谷の方谷のもとを訪れ、「井田を耕し、布吊を織り、我々は二百年以上も子孫を絶やすことなく生きて来られたのにもかかわらず、歴史にくらい今のひとはその恩に報いることもせず、田地の境界もくずれ、井田の由来が分からなくなってしまいそうです。
今のうちに田間に碑を建て、光政公の徳を無窮に示したいのです。文章によってこのことを記してください。」と言った。方谷は非常に喜ぴ、「古をよく学ぶ者は精神を汲み取って、制度や形に拘泥することなく、現実の時世の変化に対応する。村人の井田の何たるかを知る者が少なくして、ただ公の遺徳を慕う心が深く、建碑の挙について衆議が満場一致で決まったのは、『上下父子の如く、郷隣兄弟の如きあり方』が、今もあるからです。実(まこと)なるかな、民を教え育てるのは、その意味が問題なのであって、制度や形ではないのです。
井田の境界の存亡などは『謂 うに足りません』」と教え、碑の撰を承諾した。中司がかたわらに控えるそばで方谷は井田の碑文を揮毫し、彼に授けたのである。元郷学総括の中司と元学校督事の西とは、旧知の間柄で深い関わりがあり、筆額は西に依頼した。書は、事情はわからないが方谷揮毫のものはとられず、当時すでに学校を去っていた鎌田に依頼された。鎌田と中司とは信頼関係で結ばれており、播州赤穂塩屋村の塩田王柴原氏のもとに寄留していて明治25年に客死した鎌田め最期は、柴原氏から中司に詳しく報じられ、柴原氏と中司と鎌田の遺族との話し合いで遺骸は禅宗の名刹、赤穂の興福寺に葬られた。
建碑がなったのは明治9年10月である。この5ヶ月前の明治9年5月、閑谷精舎引受人の谷川達海・岡本魏は県令へ「閑谷私学廃止之届」を提出し、6月私立遺芳館が閑谷へ移転してきた。遺芳館は明治4年に学校督事の西薇山と加一藤次郎が岡山藩校を完壁なまでに洋式に変えてつくった普通学校が、同6年10月学制の頒布により廃止されたあと、普通学校で使われていたそのままの器具と校舎を使い、同年設立されたものである。
ここではもっぱら英語と仏語を教 えた。7月、この私立遺芳館に対し区長の中司を代表とする和気郡第18区の戸長・副戸長らは、池田光政の遺志を継ぎ永遠にわたり学校経営を行いたいので閑谷学校を貸してほしいという遺芳館側の申し出を受け、杉山岩三郎・西毅一・中川横太郎・日置健太郎・池田長準・東馬安太代理岡本魏・加藤次郎代理谷川達海・同青木乗太郎・同蜂谷熊男・同大口精義・同石原半八郎・加藤甚五郎・同水谷亥孝太・同中司通明らに、学校経営を条件として永代貸与を決定した。和 ‘気郡第18区の人々にとっても、文明開化の時代に光政の遺跡を廃絶しないようにすることは、「宿志」であったと「閑谷校永世御貸渡申定約之事」にはある。注目すべきは和気郡第18区の代表は中司通明であり、遺芳館側にも彼が名をつらねている事実である。そして明治10年6月に方谷が死去する直前の5月、経営不振から遺芳舘は休業となり、11月遺芳館は「池田学校」と改称されて岡山で開校した。
西によれば、岡山にはこれより以前に哺方精舎」という私塾が あり、のちにこれを別の場所へ移して『力行精舎」といった。ここでは森田月瀬(もりたげつらい)と坂田警軒が、漢・英・数の三科を教えたというが、閑谷を去って岡山へ移った閑谷精舎(遺芳館)と力行精舎とを合体させ、池田学校にしたのだという。! 西薇山は明治4年に学校督事に就任したとき、新時代に閑谷学校は無用と考え破壊しようとした。しかし明治12年に新庄厚信と二人で閑谷を訪れ、その荒廃ぶりをまのあたりにして・心中に再興の気持ちが芽生えた”この年年池田家は池田学校への運営費の支出をやめ、西は困惑する生徒たちを見捨てるにしのびず、私費をもって源泉学舎をっくった。
閑谷学校の地所と建物すべてが池田家の要請によって、備前国第18区総代中司通明・浦上甚右衛門・阿部正則・中司麟吉4名の連名で池田家へ譲りわたされたのは、同年のことである。閑谷学校の再興は明治17年まで待たねばならない ‘が、強力な個性の人薇山は、教頭として来閑したとき源泉学舎の生徒を引き連れてやってきた。その記念すべき年に備えて中司は、井田碑の題言と、方谷の愛した蕃山村の盧の跡へ彼の発起になる碑を建てようと、友人の坂田へ二つの文章を依頼していた。これらの文はと、もに、山田方谷との心の交流を永遠に記しておこうとした彼の願望であり、また建碑によって蕃山と方谷との魂が交わった聖なる場所を、永遠に保存しなけれぱならないという使命感からであった。蕃山村の方谷の盧は明治16年には荒れ果て、この聖なる場所が「混滅」(『山田方谷全ノ集第二冊』)に帰すであろうことを惜しんだ中司は、蒙額を池田茂政に依頼し、彼自身の発起になる碑を建てた。
西は明治24年に刊行した『閑谷校史』の史料調査のため、中司から多くの知識を得、貴重な書籍を借りた。方谷の鷹の碑文を写して西へ送ってほしいと二度まで中司に催促しているが、編集の段階では採録しなかった。昭和22年ころ方谷の孫の山田準氏は『山田方谷全ノ集』の資料調査のため正宗敦夫の元を訪れ、蕃山村の盧跡に中司が建てた碑の在処を訊ねたが誰も知るものはなく、中司が危倶したとおり、方谷の遺愛の盧跡は泯滅に帰していた。
企画展「山田方谷と郷土の人々」は、閑谷学校が版籍奉還によって池甲家の手から離れたあとどのような過程をたどって存続しえたのかを、岡山藩の旧藩士らと地元の有力者たちとの協力関係にスポットをあてて考察した。彼らはすぐれた陽学者熊沢蕃山・山田方谷を尊敬する共通した心の素地があり、陽明学の伝統は脈々と明治の世まで続いていることがわかる。平成19年9月に老朽化のためとりこわした日生町の難波家の客間には、この年の夏まで坂田警件の書額がかけられ、障子には明治12年から14年にかけて坂田に入門し興譲館に在籍した難波忠治(1862~1922)の漢詩が揮毫されていた。
難波の遺品を整理した結果、彼は閑谷学校へはいかず、森田月頼の私塾誠意舎で学び、ついで池田学校へ入学し、池田学校が閉校になったあと興譲館へ入学したことが判明した。森田が指導した喰鞭一着社(ぎんべんいっちゃくしゃ)の漢詩集(写本)、坂田の添削による難波の漢文の作文に加え、方谷が閑谷で講義をした「孟子養気章図解」(写本)、朱の注で赤く染まった「古本大学」、「大学或門」等が遺品の中からみつかった。岡山藩の東のはて日生村にも、陽明学を研究する真摯な人々が、明治期には存在したのである。