山田方谷と炎の陽明学

危機の哲学とも戦場で学ぶ実践学とも称される陽明学。
その神髄を身をもって実践した『リストラの天才』が、幕末の日本にいた。名を山田方谷(ほうこく)という。
十万両の借財に苦しむ備中松山藩の財政をわずか八年で立て直し、逆に十万両の蓄財をなし遂げたというから驚くではないか。先祖との宿縁に導かれ方谷を研究する矢吹邦彦氏がその知られざる素顔に迫る。

◎山田方谷と炎の陽明学
1. 山田方谷からの密書
2. 佐藤一斎の塾の 塾頭に
3. 致良知と 知行合一
4. 藩政の 大改革
5. 富国強兵
6. 大政奉還文の 秘密
7. 新政府入閣を. 断る

 

 

【山田方谷からの密書】

山田方谷とはいかなる人物であったのか。

結論から先に述べさせていただければ、「リストラの天才」であり、かのケインズにさきがけて”ケインズ革命”を成し遂げた幕末の陽明学者である。
徳川幕府が築いた封建社会のなかで、備中松山五万石を一夜にして企業立国に仕立てあげ、ひそかに士農工商の身分を否定して能力主義を採用した財政の革命家であったと同時に、一方で、「誠」を至上とする清例な求道者の生涯を貫いた煙(いぶ)し銀のごとき哲学者だった。江戸時代を通して、これほど見事なリストラクチャリング(事業の再構築)を完遂した改革者を、私は他に知らない。

方谷に比べれば、財政家としての上杉鷹山や将軍吉宗の改革など、その経済知識や発想、成果において、まさに大人と子供ほどの違いがあるのだ。越後長岡藩の破天荒な英雄・河井継之助が三十三歳のおり、はるばると備中松山藩(岡山県高梁市)を訪ね、一年ちかくも方谷の内弟子となって、土下座してまで生涯の師と仰いだのは、方谷が前人未到の藩政改革を達成して、民百姓から神のごとく敬われている陽明学者だったからである。

幕末三博士と称された塩谷宕陰(しおのやとういん)と安井息軒(そくけん)が「当代で最も優れた人物はだれか」を議論したとき、息軒は水戸の藤田東湖を推賞したが、宕陰は山田方谷を挙げ、「方谷は東湖に学問を加えた人物」と答えた。明治の偉大なジャーナリスト、三宅雪嶺が明治の架空の理想内閣を発表したことがあった。三宅は陸軍大臣の西郷隆盛、文部大臣の吉田松陰と並んで、大蔵大臣に山田方谷を擬したものだ。明治の雑誌『日本及日本人』は「山田は内務大臣の器なり。大蔵大臣または農商大臣または文部大臣と為るも可なり」と書いた。

だが、方谷の事蹟はいまや歴史の彼方に埋没してしまったようである。人々の多くは、聞きなれない方谷の名前に戸惑いを覚えるかもしれない。明治維新政府から参閣を熱望されながら、方谷がその栄光に背を向けて、残された生涯を郷学(郷土の学問)にかけたからである。勝者の歴史は山田方谷を忘れた。

私の四代前の矢吹久次郎は方谷の門下生の一人で、代々からの天領上市(岡山県新見市)の大庄屋だったが、中国地方の豪族たちをたばねる情報ネットワークの盟主であり、方谷の有力なスポンサーともなった人物である。方谷の一人娘小雪は久次郎の惣領息子発三郎に嫁いだ。方谷と久次郎との間に交わされた密書を含む手紙は三百通以上と推定され、うち百二十通が小雪の位牌とともに矢吹家に現存している。

石川県加賀市で内科医を開業していた父・久寿に、私は幼稚園の頃からそのおびただしい手紙を見せられたものだ。第二次世界大戦の敗戦で全財産を失った父にとって、残された唯一の誇りが「方谷さん」だった。幼い頃、落書き好きの私が貴重な手紙の裏にサムライの漫画を鉛筆で描いたりしてしまい、父をあわてさせたことがある。それがなぜか消されないで、いまも残っている。九年前、昭和天皇が崩御された翌日、父は他界したが、「この手紙をもとに本を書いて、方谷さんのことを世に伝えてくれ」というのが、生前からの私に対する”遺言”だった。幼い日の悪戯(いたずら)書きをあえて父が消そうとしなかったのは、ありし日の父から私へのメッセージではなかったか、とふと思うことがある。
【佐藤一斎の塾の塾頭に】

山田方谷は二世紀ほど遡(さかのぼ)る文化二(一八〇五)年、備中松山藩に農民の子として生まれた。三歳で漢字を覚え、四歳のときに大書した雄潭(ゆうこん)な額字が神社に奉納されている。
貧しくとも教育熱心な両親によって、五歳で隣国新見藩(新見市)の儒学者丸川松隠の塾に入り、朱子学や詩文を学んだ。丸川塾を訪ねた客人から「坊や、何のために学問をするの」と尋ねられた方谷少年が、「治国平天下」との志を述べて度肝をぬかせたのはまだ九歳のときである。「治国平天下」とは四書の一つである『大学』の重要な一節で、少年はすでに「四書」を暗唱していた。

儒学の精神を究めようとする方谷だったが、十四歳からの一年ほどの間に母と父と相次いで死別し、農業と家業であるささやかな製油業を継ぐ。方谷の率直な告臼によれば、家業の煩わしさ、俗物たちと明け暮れた「悔恨の」七年間を経験した。

藩主板倉勝職(かつつね)から二人扶持の”奨学金”を授けられ、藩の学問所への出入りを許されたのは二十一歳の暮れだった。やがて、京都の儒学者寺島白鹿のもとでの遊学から帰国した方谷を、藩主は八人扶持の士分に取り立てた。農民の子が名字帯刀を許される武士になれたのである。方谷は藩校有終館の会頭に命じられた。さしずめ教頭のような役割である。文政十二(一八二九)年、方谷二十四歳のときだった。三十歳になった方谷は、江戸に出て佐藤一斎の塾に入る。

佐藤は幕府の昌平欝(しょうへいこう)の塾長という学界の巨頭だが、表向きは官学の朱子学を標榜して.いたものの、実際に信じるところは陽明学で、陽明学者として”東の一斎、西の大塩”とも称された。大塩とは天保八(一八三七)年に乱を起こした大坂の与力大塩平八郎である。

一斎の私塾の門をたたいた方谷は、全国から集まった俊英のなかで瞬く間に頭角を現し、塾頭になった。一斎門下の二傑と呼ばれたのが陽明学の方谷であり、あと一人が朱子学を信奉する佐久間象山だった。象山がどうしても議論で勝てなかった相手が塾頭の方谷だったという。一斎の塾において二年間の学びを終えた方谷は、帰藩すると六十石を与えられ、有終館の学頭(校長)になった。
【致良知と知行合一】

では、方谷が学んだ陽明学とはどのような学問なのか。中国の明の時代、王陽明(一四七二~一五二八)によって樹立された陽明学は、危機の哲学とも戦場で学ぶ実践学ともいわれる。王陽明は敗北を知らない勇猛果敢な歴戦の武将で、数万の軍を率いる司令官でもあった。その陽明学には二つの大きな支柱がある。その一つが「致良知」だ。

陽明学と対立する朱子学の理と気の二元論によれば、理(本質)の現象である気の密度が高まって人間が誕生し、気の分散で死を迎える。すなわち、生きている人間は密度の高い気の集合体とみなした。

しかし、王陽明は人間は単なる気の集合体ではなく、理と気の一体化したものと考えた。身体は気の集合体からできているが、生まれたときから同時に心を持っている。心即理、心は理である。理と気をもつ人間は小宇宙そのものなのだ。心が私利私欲に染まりさえしなければ天の理がそなわる。王陽明は、その理を「良知」と言い換え、それをしっかり具現することを「良知を致す」、つまり「致良知」として、教育の中心に据えた。

あと一つの支柱が「知行合一」だ。知っていながら行わないということはまだ知らないということに等しい。知は行なしに成立しないのである。王陽明は経験や体験によってこそ真に物事が知られる、という徹底した経験主義者であった。「心を鏡のごとく磨け。人は磨き切った己の鏡の心をよりどころとして行動せよ。知っていながら行わないということは、まだ知らないに等しい」これが王陽明が説く陽明学の神髄である。朱子学から陽明学に傾斜した方谷は「誠」をとりわけ重んじた。表意文字である「誠」の語源は「言」と「成」。つまり、言うを成す。陽明学の知行合一に限りなく近い思想である。

 

【藩政の大改革】

松平定信の孫である板倉勝静(かつきよ)が、婿養子として備中松山藩にやってきたのは弘化元(一八四四)年だった。祖父に似て聡明な若君は、方谷から帝王学を学んだが、新藩主の座につくと方谷に藩の元締役と吟昧役を命じた。藩の大蔵大臣に、という命令である。嘉永二(一八四九)年、方谷が四十五歳のときだった。学頭を辞して隠居を申し出たいと思っていた方谷にすれば、まさに青天の露露(へきれさ)。いわば社内教育一筋の定年間近な教育部長が、新任の社長から財務を担当する専務取締役を命じられたようなものだろう。

いくら幕末とはいえ、農民あがりの一介の儒学者の大抜擢は、藩内に異常な衝撃を与えた。上級の武士たちは激怒し、方谷を暗殺するとの噂も駆け巡った。しかし、藩の財政改革をもくろむ勝静は意に介せず、安政元年(一八五四)には参政という、いまの総理大臣にあたる職に方谷を据えた。さすがにこの後、十四代、十五代将軍の幕閣における老中にのぽりつめた勝静だけのことはある。方谷が藩政にたずさわったのは大塩平八郎の乱の十二年後にあたる。藩の台所事情を調べて方谷は樗然とした。備中松山藩は大坂の蔵元を中心に十万両の借財を抱えていたのだ。しかも表高こそ五万石だが、実収入は二万石に満たない。

以前の元締役はそれを粉飾し、借金に借金を重ねていたわけだ。備中松山藩は粉飾決算により、破産状態にあったのを外部に隠していたのである。「飲んでやる、飲んでやろうではないか」十万両の借金を飲んでやる。方谷の口から、絞り出すような声が吐き出された。孤独な叫びだった。方谷はまず債権者が集中している大坂に出向いた。蔵元の商人を一同に集めて持参した帳簿を見せて粉飾決算を公表し、十万両の借金を一時棚上げしてくれるように頼み込んだ。そして、■再建策を彼らに示した。借金を棚上げしてもらった間に藩の財務体質を正常化させる。そのうえで改めて新規事業に投資する。そして新規事業で得た利潤で負債を返済していく・・・。

バブル景気の崩壊で悪戦苦闘する企業の再建のパターンそのままだが、当時としては前例のない画期的な方策だった。方谷は、「その間は新たな借金は頼まない」と固く商人たちに約束した。すでに矢吹久次郎を盟主とする中国地方庄屋ネットワークの新資金ルートが約束されていた。新規事業の投資は「鉄」である。豊富で良質の砂鉄に恵まれたこの地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造したのである。膨大な公共投資だった。

それらは自前の輸送船を仕立てて江戸で直売した。方谷は販売を司どる撫育局(ぶいくきょく)をつくり、領土のすべての産業を藩の専売事業にして、巨万の富を得た。同時に藩をあげての大倹約令を断行した。藩士に減俸、賄賂を禁止する。方谷の減俸率は他の藩士の倍として、自分の家の会計を他者に委任した。政治家として家計をガラス張りにした日本の先駆者だった。方谷はまた、飢瞳になれば真っ先に餓死していく農民に対して、徹底した保護策をとった。彼は新田開拓を奨励し、そこで取れた米には租税を徴収しなかった。そして、藩をあげての殖産興業によって財政が豊かになると、税を軽減したのである。これが農民の生産性意欲を刺激した。減税したにもかかわらず米の生産は倍加し、藩の米蔵は満杯となった。損して得とれ、とはこのことである。

数々の改革のなかでも最も驚かされるのが、藩札を集めて河原で燃やしてしまうという”火中一件”だろう。方谷はいつの間にか不換紙幣となって民衆の信用を失った藩札(紙幣)を正価で買い戻し、三年後に河原にそっくり積み上げ、民衆が見守るなかでことごとく燃やしてしまったのである。人々の驚き、どよめきのなかから、方谷への厚い信頼が生まれた。紙幣が軽やかに遅滞なく流通すれば、経済は黙っていても発展するのは資本主義の根本原理である。経済における「お金」は人体における血に等しい。血が動きを止めれば人体はたちまち腐臭をはなって死に到る。

よどませてはいけない。破産寸前の備中松山藩において、方谷がなぜあえて信用を失い動きを止めた藩札を必死に買い戻したか。弱りきった経済社会への緊急輸血のためだった。詳しいことは、次に執筆を予定している『山田方谷外伝』で構造的に語りたいと思う。方谷が安政四(一八五七)年、五十二歳で大蔵大臣の職を辞すまでの八年間に十万両の借金はなくなり、逆に十万両の蓄財ができた。改革は見事に成功したのだった。

イギリスの経済学者ケインズ(一八八三~一九四六)は、公共工事の拡大や管理通貨制度の必要性を提唱した。公共事業と減税と金利低減を三種の神器とするケインズの不況対策理論。その革命的な理論は各国の経済政策に大きな影響を与えたが、方谷は彼に一歩先んじて、日本に”ケインズ革命”を起こしたのである。それも理論としてではなく、自らの実践を通して。だが、ケインズ政策は劇薬である。劇薬は妙薬ともなれば毒薬ともなる。投入するタイミングと量を誤れば取り返しのつかぬ薬害をもたらすことを知らなければならない。

「ケインズは死んだ」とよく言われる。しかし、資本主義が続く限り、ケインズは死なないだろう。私に言わせれば天下の薮医者がしばしばケインズを使いこなせなかった己の未熟をケインズの責任に転化しているにすぎない。

 

【富国強兵】

現代では、米沢藩の上杉鷹山が、その財政改革によって名君と評価されている。リストラの参考書としてしばしば登場する上杉鷹山は、方谷がまだ十八歳の若者だったとき、藩政改革半ばで他界した。米沢藩がすべての借財を返したうえ、五千両を備蓄できるのは半世紀後、慶応三年(一八六七)の大政奉還の年まで待たねばならない。

つまり、十万両を備蓄した方谷の備中松山藩の改革は、わずか八年間で、米沢藩の十年も前に完了しているのだ。米沢藩が世間を驚かせたのは、天保の大飢謹で一人の死者も出さなかったことだが、それは鷹山の死後のことである。一方、方谷が備中松山藩の参政(総理大臣)として藩政を任されていた二十年間、藩内では百姓一揆は一度も起きていないし、餓死者も出していない。近隣の他藩の農民たちは、備中松山藩の農民たちを羨んだと語り伝えられている。

では、なぜ鷹山が江戸時代最大のリストラの天才として注目されたのだろうか。明治時代に内村鑑三がその著『日本及び日本人』で鷹山を取り上げ、その英語本を読んだアメリカの故ケネディ大統領が「私の尊敬する日本人」と鷹山を評価した。確かに鷹山は希代の名君である。冷や飯食いの傍流のなかから人材を登用し、破産同然の米沢藩の再建を任せた。人を活かすことで米沢藩を立ち直らせた名君にほかならない。大藩に婿入りした養子の悲哀に耐えながら自分の欠点や弱さを自ら意識し、逆にその欠点や弱さを強さに転化した人物である。だが、名君の呼び声はハロー効果を発揮して、いつの間にか鷹山を財政の達人、リストラの天才に仕立てあげてしまったように思える。

私が山田方谷こそ過去の日本人には存在しなかった理財の天才と確信するにいたったのは、貨幣制度や財政に関するその希有な造詣の深さだけでなく、豊かな知識を機に応じて大胆に、迅速に、実際の改革に応用することのできた実行者だったからである。方谷の業績はしかし、財政の立て直(ザ)しという理財の面だけにとどまらない。弘化四(一八四七)年、方谷は一番弟子の三島中洲を連れて岡山の津山藩に赴き、新しい洋式砲術を学んでいる。

大砲も自ら鋳造した。「これからの備中松山藩には軍制の改革と洋式砲術の導入が必要である」外に向かって広げた方谷の情報網が、警鐘を打ち鳴らしたのだ。「陽明学は机上の学問にあらず」藩の軍事面の最高司令官でもあった方谷は、藩の正兵の倍以上にのぼる農兵を組織し、西洋銃による徹底訓練を実施した。安政五(一八五八)年、この地に立ち寄った長州藩の久坂玄瑞(げんずい)がこの光景を見て、「わが長州はとてもかなわない」と脱帽した。三十六万石の長州藩が、五万石の備中松山藩に軍備の面で劣勢と認めた。

ちなみに、高杉晋作の奇兵隊の創設は文久三(一八六三)年のことであるが、それには久坂から寄せられた目撃情報が大きなヒントになっている。しかし、同じ農民を中心に組織されながら、寄せ集めの奇兵隊とは違い、方谷の軍隊ははるか以前からフランス式に訓練を重ねた精鋭ぞろい。たぶん、備中松山藩の軍隊は史上最強だったはずだ。教育がこれまたすごい。庶民教育のあまりの高度さに、越後長岡の英雄河井継之助が日記「塵壷」のなかで絶句している。
【大政奉還文の秘密】

一方、藩政の改革の成功は江戸城中における藩主勝静の評価を高めることになった。実質二十万石。勝静は幕府の寺社奉行から、さらには老中にのぼりつめる。だが、そこに晴れがましい栄誉とは逆の悲劇があった。勝静は徳川十四代将軍家茂と最後の十五代将軍慶喜の老中を二度にわたって務めた。だが、江戸に呼び出され、老中板倉勝静の政治顧問となった方谷には、「江戸幕府は瓦解する」との暗い予感があった。歴史の宝庫ともいえる儒教には中国の興亡の歴史が記されており、そこから国家のライフサイクルが見えてくる。

儒学から学んだ歴史観と、方谷の鋭い先見の洞察力が、武家社会のライフサイクルの終焉を見抜いた。山田方谷が歯に衣を着せず、徳川幕府崩壊の予言を公開したのは安政二(一八五五)年のことである。長州や薩摩の志士たちが、まだ倒幕を口にする以前だった。「前途は滅亡しかない」そう悟った方谷は、藩主勝静に幕閣の地位をただちに捨てるよう進言する。しかし、藩主は、「徳川氏とともに倒れん」との激した手紙を、国元の方谷に送った。

「臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二……」で始まる「大政奉還上申書」を、徳川慶喜が天皇に差し出したのは慶応三年十月十四日だった。この上奏文は慶喜が若年寄の永井尚志に命じて起草させた、と伝わっている。だが、どうやら真相は違うようだ。矢吹家には、方谷から送られた「我皇国時運の沿革を観るに……」という密書が現存している。内容はもちろん、字句も上奏文とほとんど変わっていない。そこで、以下の推理が成り立つ。上奏文の内容について、慶喜から首席老中の勝静にご下問があり、勝静からさらに方谷に相談がなされた。

十月十三日、方谷が作成した上奏文の下書きを勝静から渡された永井らが「我」を「臣」に変えるなどなど、一部をへりくだった表現に変えた。大政奉還上申書は翌日の十四日に京都朝廷に差し出されている。方谷から久次郎にあてた密書には、決まって「早々御火中」という指示がある。読み終わったら、ただちに燃やすようにとの指示である。だが、なぜかこの密書にはその文字が見当たらない。私は考えた。

「方谷は、この密書を歴史の記録として残したかったのではないか。だから『早々御火中』の指示をしなかったのではないだろうか」歴史の暗部をかいま見た思いがして、その夜、私は激しく興奮して明け方まで酒を飲み続けたが、どうしても眠れなかった記憶がある。

 

【新政府入閣を.断る】

慶応四年(明治元年)、鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争が始まり、敗れた徳川慶喜側は勝静らを従えて大坂から江戸に遁走(とんそう)した。備中松山藩は朝敵となった。備前岡山藩や近隣の大軍が押し寄せてくる。抗戦か恭順か。藩論は真っ二つに割れた。

戦えば、最新西洋銃で装備した備中松山藩の農兵は、史上最強の評価を歴史にとどめるに違いない。かつて方谷の教えを受けた河井継之助は越後長岡藩にコピーともいえる西洋式軍隊を導入し、現実に薩長を中心とした+倍もの官軍を六度も敗走させている。だが、朝敵となった備中松山藩に明日はない。国土は焦土と化すのは必定だ。

藩主不在の状況のなかで、みんなから最後の決断を迫られた方谷は、たぎる血の決戦の思いを断ち切って、無血開城を決断した。「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」方谷は最悪の場合でも、自分一人の死で藩と藩民を無傷のまま救いたかった。徳川慶喜が恭順とあきらめて江戸城を明け渡したにもかかわらず、元老中の勝静は榎本艦隊と函館に渡り、維新政府に対抗し続けた。

しかし、もはやこれまでの状況に追い詰められた勝静は、方谷らの策でプロシア船に乗船し、江戸に入って帰順した。板倉勝静と勝全父子は群馬県の安中藩に御預けの身となった。明治新政府が、朝敵側とみなされた山田方谷に、はやばやと入閣を願ったのは異例のことである。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは、方谷の理財の才に注目したのだ。

だが、その誘いを方谷は、老齢と病、郷学に専念することを理由に断っている。求道者方谷は栄光の道よりも自らの最晩年を郷土の教育者として生ぎる道を選んだ。しかし、方谷に対する新政府の上京出仕の督促は激しい。方谷の心境を察して矢吹久次郎が動いた。

彼は方谷の母の里である小阪部(岡山県大佐町)に広大な屋敷と土地を求め、塾の施設として方谷に提供したのだ。かくして、老いたる炎の陽明学者方谷は備中松山藩を後にした。明治六年、方谷は岡山藩主池田光政が十七世紀に岡山県伊里村に開いた由緒ある閑谷(しずたに)学校の教壇に立つことになり、一春と秋にそれぞれ一か月、陽明学を講義した。いかに老いるか。これは最も今日的な重要テーマになっているが、方谷は一つの老いの生きざまを、老いの哲学を、静かに私たちに語りかけてくる。

ここに最も深い感銘をおぽえずにはいられない。方谷が没したのは明治十年。七十三年の生涯だった。枕元には王陽明全集と、勝静から賜った小刀、二年前に急死した矢吹久次郎の形見のピストパが安置されていた。方谷に見るリーダーシップいま方谷の事蹟を振り返れば、彼は幕末の激動期にあって、驚くべき無血革命を成し遂げた偉士だったと言えるだろう。方谷はまた、封建社会においていち早く資本主義を導入していることがその施策からわかる。さらに驚くべきことは、武士が支配する士農工商の身分制度も否定した。

藩民の八割を占める農民を保護し、ついに生産性を倍加させたことは特筆に値するが、内弟子となった河井継之助が驚いてしまうほど、何のけれんみもなく自分の高弟を次々に藩の要職に就けているのだ。高弟のほとんどが農商の出身だった。方谷にはリーダーとしてのカリスマ性があった。胆力と胆識には眼をみはるものがある。最終決断はわが心で決まる。頼れる羅針盤はわが心のみ。責任を他人に転嫁しない。だが、方谷が偉大なのはそれだけではない。

藩の総理大臣の重職にありながら、家禄は家老に準じ、藩政改革に乗りだすにあたって他の藩士の倍の減俸を自己に課し、清貧どころか困窮一歩手前の生活に苦しんだ。家計を公開したのも、なかなかできないことだ。上に立つ者は私利私欲を離れ、自らを律して生きていかなければならないことを、彼は身をもって教えてくれるのである。そして、世俗の風塵のなかで方谷が阿修羅のごとく死物狂いで守ろうとしたのが「誠」という清涼な心だった。

方谷が学び、実践した陽明学とは”光の哲学”であり、生きるための哲学なのだ。しかるに、中江藤樹に始まる日本の陽明学の系譜は熊沢蕃山、佐藤一斎、大塩平八郎、山田方谷、春日潜庵、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、西郷隆盛、河井継之助、乃木大将:…・と脈々と続くものの、その多くが「死」の選択を余儀なくされている。日本には死を美とする武士道があった。

それを誤りとは、私は言わない。しかし、強固な軍隊を有しながら備中松山藩を無血開城し、たぎる決戦の思いを断ち切ってみんなが生き延びる選駅をした方谷こそ、その光の哲学の具現・者ではなかったか。死は決して潔くはないのである。山田方谷が藩主勝静に説いた帝王学は「事の外に立つ」ということだった。政治も経済も事の内に屈してはならない。目先の空腹を満たそうと利にあがいても所詮一時しのぎの付け焼き刃。事の外に立って義を明らかにし、抜本的な方針を整えてから、戦略を実行すべし、とする。利は義の後からついてくる。いつの世にも通用する陽明学の要諦である。

 

 

 

著:矢吹邦彦 元吉備国際大学教授
※:上記の文章は現吉備国際大学教授 矢吹邦彦先生が1997年5月に雑誌用に執筆・掲載されたものです。
当ホームページでは矢吹先生ご本人の許可を得た上で紹介・掲載させていただきました。
掲載に当たり、快く掲載を許可してくださった矢吹邦彦先生に心より感謝いたします。
上記文章の無断転載はおやめください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA